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家族揃って楽しむ中秋の夜、親と離れ離れになった子供達の物語(二)(写真)

 【明慧ネット2004年9月28日】

● 4歳の女の子が経験した生離死別

  父、母そして祖母、融融ちゃんは次々と彼女を可愛がってくれた家族を失った。4歳の融融ちゃんは、家族を思い出すたびに、いすを持って父の骨壺が置いている机の上に這い上り、父の骨壺にチューをした。融融ちゃんは、“父は天上にいるよ”と純真に他の人に言っている。

融融ちゃん 融融ちゃんの父母である鄒松涛と張雲鶴

  融融ちゃんの父である鄒松涛は、1999年に修士号を取った。母である張雲鶴は、青島徳瑞皮化会社(ドイツ会社)で主管会計士として働いていた。彼女は業績が著しく良かった。1999年10月、?松涛は北京の信訪局に行って法輪功の状況を陳情したことで、青島に戻った時点ですぐ非法に拘留された。その後、12月にやっと釈放された。?松涛が迫害されて死亡した経過を詳細に知っている人の話によると、28歳のまだまだ若い年である彼は、2000年11月3日、山??博王村労働教育所の警察官である?万辛と?正華?に電棒で叩きのめされ,ビルから落ちて死亡したそうである。江澤民の法輪功学員に対しての“打って死亡した人は自殺と言ってもいい”と言う密令があったからこそ、悪い警察官達は法輪功学員に対して、ビルから落ちるところまで迫って叩きのめしたのである。また、ひどく打たれて死亡した人は、ビルから下へ落とし、自殺したと嘘をついているのである。
 
  融融ちゃんの母である張雲鶴は、自分の信仰を堅持したことで、家に帰られない状況になって、不幸にも警察に捕まえられ、現在青島大山看守所に監禁されている。融融ちゃんは、2歳半から祖父母と一緒に生活しなければならなかった。しかし、融融ちゃんの面倒を見てくれた年をとった祖母は、婿を失ったショックと娘と離れ離れになった2重のショックで、2001年8月、この世を去った。

● 3歳の開心ちゃんが一人の時流した孤児の涙

  黄?(乳名:開心ちゃん)の父母は法輪功学員である。開心ちゃんが1歳半の時(2000年12月5日)、母である??湘は迫害されて死亡した。また、父である黄国?は当局に迫害されて非法に監禁されている。現在、開心ちゃんの面倒をお爺さんとお婆さん(父方)が見ている。開心ちゃんは、1歳半の時からお婆さん(母方)に母の死を口に出さなかった(お婆さんの体が弱いため、周りの人々は娘の死を隠していた)。

開心ちゃん 母の写真にチューしながら“母を恋しく思う”開心ちゃん

  “ママはどこ?”とお婆さん(母方)が聞くたびに、開心ちゃんは“広州で仕事をしているよ”と答えた。しかし、お婆さん(母方)がいない場所で、“ママはどこ?”と他の人が聞いたら、“ママは悪人に殺されたよ”と答えた。“なぜ、お婆さん(母方)には言わないの?”と聞くと、“お婆さん(母方)はきっと泣くよ。きっと悲しくて泣くでしょう。”と開心ちゃんは答えた。1歳半の開心ちゃんであったが、心はお婆さんの立場からお婆さんのために物事を考えていたのである。
 
  明慧報道には、開心ちゃんの次のような悲しい物語を載せている。それは、開心ちゃんがある法輪功学員の家に行った時のことである。ちょうどこの学員の家には、《羊城小故事》と言う法輪功真相資料があったが、資料の中には、“広州で迫害され死亡した大法弟子達”の写真を載せていた。写真の中から、自分の母を見つけた開心ちゃんは、なにも起こらなかったような顔で“この人は私のママだよ。”と言った後、また自分の遊びに夢中になった様子だった。その場にいた大人達は、小さい開心ちゃんが、まだ何も分かっていないと思っていた。また、開心ちゃんには、何も分からないことが幸せかも知れないと思い、少し安心した。しかし、みんなが部屋に入った後、開心ちゃんは真相資料を再び開き、自分の母の写真を見つめながら静かに涙を流した。
 
  ナチスの強制収容所時代とは遥かに遠い現在、中国で大勢の子供達がまだ同じ苦痛を経験している。国家の政治集団と国民が真実を知っているいないにかかわらず、自分が利用されてこの絶滅的な迫害に参加したからには、自分がこの期間にやったことを心から反省する必要がある。たとえ、静かなオフィスで太平盛世を作り上げた人も自分がやったことを反省する必要があるでしょう。

● 親が迫害されて、親と離れ離れになった子供達の物語
 
  アリーナと言うある女の子は、ナチスの強制収容所で殺される前に次のような詩を書いた。

私は一人で、
もっと良い人達がいる他の世界に行きたい。
人殺しをしない遥かに遠い未知の世界へ。
そこで、私達よりもっと大勢の人々は
強者であるかも。
そんな所で、
もうすぐ私達を待っているだろう。

  昔から“難の中で人の心を見る”という言葉がある。現在、少数の人達がまだ天理を破る悪いことをやり続けているが、アリーナが幻想する“もっと良い人々がいる他の世界”は“遥かに遠い未知の世界”ではなかった。周りの善良な人々は、法輪功学員の遺孤児達のことを同情して、面倒を見てくれた。
 
  デンマークに逃亡した劉小天は、当地の法輪功学員の助けがあったからこそ、心理的と精神的な打撃からだんだん抜け出すことができ、現在は教育も受けることができるようになった。デンマークの法輪功学員の助けで、劉小天も自分の父母がなぜ法輪功を修煉しただけで、どうしてこんな酷い目に遭ったのかを深く考えるようになり、自分も修煉を始めた。修煉してから、彼は全ての苦難の原因が分かるようになった。また、父母の犠牲を理解し、なぜ生きるかの人生の道理も分かるようになった。大きな苦難を経験した劉小天であるが、大法の中で第二の人生を得たのである。現在、劉小天は心から快楽を感じ、笑顔がでるようになった。また、心に受けた傷も回復している。
 
  大慶采油六厂で、“多くの家族”が孤児を育てているという人を感動させる物語が伝わっている。明慧報道によると、2002年9月16日、大法弟子である何華江が大慶采油六厂の悪党警察に非法に拉致された。家にはすでに母親を亡くした14歳の男の子一人が残されていたそうである。
 
  地元の大法弟子達は、何華江が非法に拉致されたことを知り、果物や食品などをたくさん持って子供を見にきた。また、服や帽子や靴などの生活用品を子供に買って与えた。そして、みんな交替で子供の面倒を見て、子供の心に傷を残さないように頑張った。隣家の人々はこんなことを見て、心から感心して次のように語った。“以前、私はこんなに良い人々がいることを信じなかった。しかし、現在、自分の目でこんなに良い人々がいることを見たのである。法輪大法の弟子だからこそ、こんな良いことができる。”
 
  2002年12月23日、何華江が江澤民悪党政治集団に迫害され死亡した。そのため、子供は孤児になり、そばには父親の冷たい骨壺しか残されていなかった。子供の心は血が出るほど切なかったが、どこに行っても自分の真相を訴えることができなった。そこへ、地元の法輪功学員が来て子供に“大法弟子達の家はあなたの家よ。あなたは私達の子供と同じよ。いつでも、気にせずに私達の家に来てね”と親切に言ってくれた。
 
  おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん達の親切な慈愛があったからこそ、子供はすぐに心が安らいできた。しかし、彼は父親と一緒に暮らした家から離れたがらなかった。そこで、大法弟子達はすぐにお金を出し合って子供に保母を雇うとともに、子供の学習と生活費用も負担してくれた。また、常に食品と生活用品を交替で持ってきて子供の成長を見守ってくれた。ある退職した大法弟子は、孫に自転車を買おうと準備して置いたお金を子供のために使った。地元の大法弟子の経済状態はそんなに豊かではない。無職の人がいれば、子供に扶養されている人もいる。また、扶養されて毎月の生活費が50元しかない人もいる。しかし、みんな次のように語った。“どんなに苦しくても、子供の心に傷を残さないようにしよう。子供が良い人になるように教えてあげよう。”
 
  2003年、子供が中学の試験にパスして、本市の中高一貫5年制の学校に入学することになった。そこで、地元の法輪功学員は子供のために1万元以上も集めてくれた。子供は、平日、学校の寄宿舎で勉強と生活をしている。また、土日になると、大法弟子達はおいしい料理を作ってあげたり、おやつ代をあげたりして、子供の不安感を取り除こうと努力している。現在、子供は何の心配もなく、幸せな生活をしている。彼は、地元大法弟子達の家における不可欠な一員になったのである。
 
  地元の人々は、自分の目で大法弟子のこのような行為を見て、心から感心している。また、何華江の子供の話を言い出すと、事実を知っている人達は涙を流しながら次のように語っているのである。“法輪大法は良い。本当に良い!”
 
  “中秋の夜、大きな苦難中で法輪功学員と法輪功学員の家族を助けてくださった善良な人々に心から感謝致します。貴方様の行為は苦難を経験している子供達に、平和・安全とすばらしい世界を見せてくださいました。また、子供達の心を暖かく守ってくださいました。” 
 
  アメリカの作家であるアリービサア−(1986年ノーベル賞平和賞の受賞者)は、1974年、ナチス大虐殺に関してのある国際討論会で次のように語った。“こんなに賢くてこんなに達観した子供達のことを物語にするのは、我々の主要な責任である。すなわち、暗闇が、生命・希望・永恒をまるまる飲み込んだ物語を書くのは我々の主要な責任である。”満月中秋の夜、親と離れ離れになった子供達の物語は、痛ましいが、ほのぼのとさせ、そして希望を語っているであろう。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/28/85281.html