日本明慧


“利己的”と“忍”に対して悟ったこと

 文/Randall Effner

 【明慧ネット2004年10月27日】私が2000年4月に法輪大法を修煉し始めた時、私が関心をもったのは全部個人のことです:健康になるため、私はいかに毎日自分に厳しく要求して、煉功していただけでした。今振り返ってみると、私は本当に大法弟子としての責任と義務を持っていたかと思う、私は師父の明慧ネットの編集部文章の“厳粛の教戒”にある中の評注の重なる教化の後でやっと行動をし始めました。

 私は、ある辺鄙な地方に住んでいます。現地は洪法の活動が少なかった、私はかつて創作に従事したことがあったので大法弟子のウェブサイトの仕事に参加するのは私の日常生活の一部になりました。今、4年過ぎましたが、私は依然として毎日どのように時間を割いて煉功するかの問題を考えています。 -問題は似ているけれども、私の出発点は異なっていると信じています。当初、問題であったかなりの私心がすでにとても大きく除かれました。

 ウェブサイトの仕事に参加する事は、私に多くの私心を取り除いただけでなく、同じく私に“忍”を勉強させました。『転法輪』の中で師父が“忍”に関する講法あるいは中国大陸の同修が邪悪な迫害の中で表した大いなる忍の境界の文章を読むたびに、私は自分も“忍”を修めていると思いいたりました。事実、私はただ法理だけを分かってあるいは同修の修煉の行為に敬服するだけでした。テレビでマイケル-ジョーダン(Michael Jordan)の試合をみて自分もバスケットボールの達人であることを想像するようなものでした。私が、本当に“忍”を修めるのは、まだ駄目です。考えてみると、私はいつも事が終わった後でやっと“忍”を修めることを思い出して、それによって自分がまたしっかりと行っていないことを悔やんでいます。

 師父の『精進要旨』の中の「忍とはなにか」の中で「忍は心性を高める鍵である。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍であり、まったく怒り恨むことが起こらず、不平に思わぬことこそ修煉者の忍である。」

 過去4年間で、私は自分が“忍”の方面でまだ一人の常人に及ばないと感じるのは一回だけではなかった。しかし私はウェブサイトの仕事に参与すること通して、ずっと堅持でき、時には、その他の楽な大法プロジェクトに参加したい思いもありましたが、私は“忍”の方面で明らかな進歩を得ました。私の進歩がどれだけ大きいか言いませんが、私がまだ元にもどることもあるでしょう。しかし進歩がまじめに進んでいるのは、言葉では言い表せません。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/10/27/87734.html