日本明慧


明慧編集部の知らせを真剣に対応しなければならない

 

 文/山東招遠大法弟子

 【明慧ネット2004年10月25日】明慧ネットはこの5年間の特殊な歴史の時期において、全世界大法弟子の全体を高め、師父の法を正すプロセスについて行くことに、非常に大きな、かつ特殊な作用を果している。師父は「明慧ネットが間違いはないと言うのではないが、重大な問題は必ず明慧ネットの態度を見なければならない。私が明慧ネット上で写真と《心自明》を発表する目的は、皆さんに1つ信用のできるウェブサイトを作り上げるためです」とおっしゃった。師父の説法の中からと、数年来明慧ネットは法を正す中で行ったことから、明慧ネットは大法弟子が法を実証するために作ったが、師父の苦心の手配の結果である、と私は理解している。それは法を正す特殊な時期において、師父と大法弟子をつながる強力なきずなである。師父の説法をタイムリーに弟子達に伝える以外、法を正す過程で、全世界の大法弟子を結集させ、全世界の大法弟子が交流し、研さんする場所を形成した。大陸の大法弟子は、邪悪な迫害の中で臨時に失った集団学法や交流の環境を明慧ネットによって補うことができた。大法を実証し、衆生を救う偉大な壮挙の中で、積極的な促進作用を果たしている。だから、明慧ネットは信用のできるウェブサイトだと言うのは疑問の余地がない、。私達は皆、明慧ネットを保護する責任がある。

 明慧編集部が発表した知らせはすべて、編集部同修達個人が法の中で悟り証明したものではなく、別に盲目的に、当て推量でしているのでもない。全ての重要な知らせは皆師父のお考えを全体の大法弟子に順次伝えている、と私は理解している。法を正す修煉の中で、早急に解決を要する重要な問題と次に早急にやらなければならない重大な事を教えている。法を正す中の重要な標識でもある。どんな態度で明慧編集部の知らせに対応するかは、直接師父の法を正すプロセスをついていけるかどうかの大きな問題に関わっている。だから、私達全ての法を正す時期の大法弟子は皆、明慧編集部の発表したすべての知らせを真剣に対応する必要がある。これも法に対して責任を負い、衆生に対して責任を負い、自分に対して責任を負う一方面である。

 私は思っているが、明慧編集部の作用は99年の7.20以前の中国の研究会(注)と同じで、ただその責任はもっと大きく、範囲は更に広くなった。

 師父は『法輪大法義解》の中で私達に次のように教えてくださった。「修煉を指導するために、私がいない場合、すべての事は、法輪功研究会が取りまとめて決定し、統一して皆さんの修煉を導いている。以前研究会が下した全ての決定は、みな私の同意を経たものである。私がどこにいても、彼らは何かの決定を下す時、電話、ファックスを通して私と連絡を取った後に、はじめて決定するのである」「それゆえ、ここで次のことを明確にしておきたい。私がいない場合、研究会が下した決定は、全国各地の補導点がそれに従って、実行しなければならない。補導員としてなおさらこのようにすべきである」。

 私達中国大陸の大法弟子は現在、依然として迫害されている最中で、形式上の補導点、補導員はすでに存在しないが、しかし私達は皆、補導員であり、皆、大法の中の一粒子であり、大法を守る責任がある。師父を堅く信じてこそ、初めて真に大法を守ることができ、初めて大法弟子のすべきことをしっかりと行うことができる。何をもって、師父をかたく信じると言えるか? 私の理解では、無条件に師父のおっしゃった通りにやり遂げていくことにほかならない。師父が私達になにかを望まれているのであれば、私達がそれを実行して行く。理解しているかどうか、また、理解の浅深にに関わらず、しっかりとそれに従ってやっていくことこそ、本当の信じることである。師父の法は、すべての話が皆、博大で奥深いもので、異なる次元の内包を含んでいる。実は、私達は師父の話を聞いて、師父のおっしゃっる通りに行っていく過程の中で、異なる次元の法を絶えず体験し悟ることができ、絶えず法に同化していき、円満成就まで至る。

 私達の修煉はもともと悟りと言う問題が存在している。今、師父がすでに法をとても明瞭に説いたのに、まだ真に信じるかの問題がある。長い間、功友の中には、師父の説法に対して堅く信じて、積極的に受け入れているのに対して、明慧ネットの資料と明慧編集部の重要な知らせに対して、読んでも読まなくてもどちらでもよいと言う態度で対応している者もいる。そのため、いくつかの重大な問題に対して法理の上ではっきり認識できず、大法を実証する好機をことごとく失った。人為的に自分の修煉にいくつかの障害を設けて、知らずに大法を実証することに全体の足を引っ張った。例えば、弾圧されてから、数年来大法弟子が続々と北京へ陳情に行って大法を実証している。師父はこれに対して「厳粛な教戒」の中ですでに明確におっしゃった。その時、明慧編集部の名義で発表したので、功友の中にはその真実性を疑うものもいた。法を以って師にするのではなくて、人を守るという出発点で、人の観念を以って盲目的に否定し、それで、数年間の貴重な機縁をむだに放棄してしまった。

 もう一つの例は、邪悪な首領を暴露して、当地の民衆に当地の邪悪を暴露し、法律という武器を用いて悪人を暴露するなどの一連の問題は、みな法を実証する過程の中で、私達すべての弟子がしなければならないことである。迫害は私達個人に対するものではなく、法に対する迫害である。法を守り、大法を実証するのは私達の道義上、断れない責任である。実は、すべての問題について、師父が法の中ですでに説いたので、ただ私達は悟っていないか、或いは悟ったとしてもそれに従って行っていないだけで、師父を焦らせた。しかし一部分の同修がとても受動的で、ある人はまったくしないで、ある人はただ対処して事をすますだけである。ある人は単純な物事を行うに過ぎない。

 私達はみな、師父の法の中から知っているが、私達は法を正す修煉であり、行ったすべての事はみな小さな事ではなくて、法と関連していて、自分の心性の高まりと関わっている。更に例えば、今度、明慧ネット編集部が出した「第一回大陸大法弟子修煉体験談書面交流大会」の原稿募集の知らせである。これも大法を実証する中でとても一つの重要な段階である。これは師父の洪大な慈悲が、弟子達に自分を高め、昇華する一つの機縁を提供してくださったのである。全ての大法を実証することに参与する大法弟子が、今度の貴重な機縁を大切にし、師父の苦心される済度に背かないようにするべきである。体得を書く過程の中で、当時の環境の下で多く気付かなかった執着と不足が暴れ、発見されたし、法理の上からも更に認識が深まった。本当に経験を総括し、不足を探し出し、今後もっとよく師父の要求した三つの事をしっかりと行うことに対して、とてもよい促進作用を果たすことができた。多くの功友は皆その重要性を認識したが、自分はよく修煉できていないと感じて、卑屈な心で書くことができなかった。ある人は自分に雄大で勢いのすさまじい事績がなく、とても平凡に修煉してきたので、書くことは何もないと思っている。またある人は、全国でこんなに多くの大法弟子がよく行い、よく書いたから、自分はよく書けなくて、たとえ書いたとしても発表することがあり得なく、書かないほうがよいと思う。ある人は、法を正す事はみんなが行っていて、書く必要はないと思う。ある人は他の人が書くことを見て、自分が書かないと遅れることを恐れて、同じく象徴的にいい加減に対処して事をすます等々、様々な心理状態を持つ人がいる。完全に一つの事として行い、修煉から外れてしまった。よく今度の貴重な機縁を大切にすることができなくて、とても残念なことにもなる。

 明慧編集部の全ての知らせは、皆慈悲深い師父が弟子達に手配した、威徳を作り上げる機会である。私達はよく大切にするべきで、真剣に対応するべきである。修煉の機縁はますます少なくなってきた。私達は1分1秒の時間をしっかりとつかんで私達のするべき事をしっかりと行うべきである。

 (注):法輪功研究会は、迫害がはじまる以前、中国で法理の研究や功法の普及、諮問などを担当していた。政府の中国気功研究会に所属していたが1996年に脱退した。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/10/25/87517.html