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事実の再現—私が天津労働教養所、分局での経歴および見聞について(写真)

 

 文/大法弟子 穆祥潔

 【明慧ネット2004年11月24日】
一、 天津市紅橋区看守所で受けた迫害

 私は三度も不法に天津市紅橋区看守所に拉致された。1999年10月に私が始めて北京天安門に行き、普通の百姓の心からの願いを伝えるためにいった。しかし江沢民政権の手先に強制的に天津市紅橋分局監獄に投獄され、私に監獄規定をそらんじるようにと強いた。私が監獄規定を暗記しないため同室のほかの数名の悪徳な犯人たちにめった打ちされ、およそ30分間私の上半身が殴られた後、腕を除いたすべてが思うように動けなくなり、頭も絶えず痙攣に似たような震えが止まらなくなった。女性の監視人は窓の外で監視した後、私をもう一つの牢屋に入れた。牢屋を変えられた後も私が続けて煉功したため、女性警察に外に出され殴られた。1999年10月の末、私が二度目に紅橋区看守所に拉致されてから、男性の監視人杜建は悪徳な犯人に大法弟子にでっち上げられた文章を読むようにそそのかした。私たちは読まないように抵抗していた。杜建は悪徳な犯人数人に私達すべての大法弟子に以下の残酷刑を施すように命令した。(図1)

図1−A  図1−B

 私は2000年11月に三度、江沢民政権の悪徳な手先によって紅橋区看守所に拉致された。私は絶食を通して抗議を表した。絶食してから七日目の日に、私には呼吸困難、心拍数加速の情況が現れ、気息奄々となった。女性警察は私が死ぬのを恐れて、犯人に私を医務室まで担ぐように命令した。医師は検査してから厳重な酸中毒だと言った。二日目の日に彼らは犯人に私を病院まで運ぶように命令し、強制的に点滴注射を受けるようになり、そして病院で私が煉功したためこのようになったとでっち上げた。私はその当時に残されたわずかな気力で彼らの詭計を暴き出し、そして医師および看護婦に紅橋区看守所の暗黒さを伝えた。彼らは急いで医師および看護婦を外に押し出して、私は煉功して精神病者になったとでっち上げた。数日経ってから、彼らは私に対して野蛮な灌食を行った。その後数日経ってから私は天津大港板橋女子労働教養所に送られてから二年間に渡る労働教養による迫害を受けた。以下は、天津市紅橋区看守所の多くの法輪功学習者に対して行われた残酷な灌食である(図2)

図2−A  図2−B

二、 天津市大港区板橋女子労働教養所で受けた迫害

 私はかつて二度も不法に天津市板橋女子労働教養所に拉致され残酷な迫害を受けた。第一回目は2000年1月25日のことで、朝5時半に労働教養所のグランドで私達に走るように強制されたとき、私は座って座禅を始めた。私はそのとき労働教養所には私達を強制する権利、私たちに煉功させない権利はないと考えていたからである。私たちは罪を犯していない。労働教養所の悪徳な警察宋延朱と潘姓の女性警察が十数名の当直の犯人たちに私と裴美玉さんをグランド前の鉄の柵までに引きずって、私が絶えず『論語』を暗誦しているため、宋延朱は私の鼻を力強くへし折った。宋延朱と潘姓の女性警察は数名の犯人たちに私の両手を鉄の柵に手錠でかけてから、数名の警察が棒を持って左右から私に対して電撃を始めた。私は依然として『論語』を暗誦していた。

 空が明るくなってきた頃、労働教養所の隊長が通勤にきて、悪徳な警察寇娜はある魏姓の当直の犯人に私の手錠にかけられている手を確認するように命じた。魏姓の犯人はきつすぎると答えた。そのときに私は手錠が自分の腕の中に凹んでいるのを見た。手と腕は非常に高く腫れていた。寇娜は「きつくない、このままで大丈夫だ」と言って去った。そのとき空から大雪が降ってきたため、私と裴美玉さんは雪の中で手錠にかけられていた。それでも私たちは絶えず『論語』と経文を暗誦していた。正午になってから、寇娜は魏姓の犯人に手錠を緩めるように命じた。そのとき私の腕はすでに紫色になり、さらに少しの時間が経つと腕の大面積に紫色の血のできものができ、指も動けなくなった。裴美玉さんも片腕を宙に吊られていたままで、私と一緒に法を暗誦していた。それから私達二人はそれぞれ二つの離れた牢屋に監禁されるようになった。中は二平方メーター未満で、小さな木の板(ベッド代わり)だけで、電気も、暖炉もなかった。寇娜はその当時の中隊長劉小紅と一緒に数名の労働教養所内でも最も悪名高い犯人たちに私たちを監視するように命じた。私たちを寝させず、食べ物も与えてくれなかった。監視役の犯人たちも時々悪いことをすることで刑の軽減もできた。

 私は中で連続6日間虐待され続けていたため、体力が持たなくなり、全身が酷く腫れて非常に痛くなって、歯も全部緩み始めて、口腔内膜も脱落した。そのとき悪徳な警察たちは私達が死ぬのを恐れて、私を外に出して所在班を変えた。
 
下の写真はその当時の情景の模擬写真である。ただこれは寒冬の日ではなく、鉄の柵も少し小さい。それから天津板橋女子労働教養所に拉致されたたくさんの大法弟子たちもこの残酷刑を受けた。それは以下のようにである(図3)

図3

 これは板橋女子労働教養所5チームの話であり、大法弟子趙徳文さんが迫害され死亡してからそのチームは解散された。

 二回目は不法に労働教養所4チームに拉致された。私は1999年から2000年8月にかけて、最初に不法に労働教養所に拉致されたとき、当時の天津市にはまだ一つの女子労働教養所しかなかった。二つのチームをあわせても80人に過ぎなかった。その中を法輪功学習者が30人ほど占めていた。しかし2001年の1月になると、私が再びこの労働教養所に拉致されたとき、天津市にはすでに二つの女子労働チームが設置されるようになり、二つのチームの人数を合わせると千人近くに上っていた。その中の大半は法輪功学習者であった。2001年4月になると、三つ目の女子労働教養所が設置され、新しい労働教養所が建設された。女子労働教養所で監禁されている人員は全部で2000人に上った。その中の75%は法輪功学習者であった。

 私が労働教養所でかつてあるお下げをした女の子を見た。水を取りにいくときに監禁されているチームの中に立っていた。見た目ではせいぜい12、13歳くらいしかなかった。私を監視していた犯人は「あの女の子を見たか? まだ14歳だ。法輪功だよ、労働教養の実刑を処せられた。暫くは髪の毛を切っていないが、懺悔書を書いてから、初めて釈放されるようになっているんだ」と言った。2001年4月の中旬頃に、天津女子労働教養所4チームの悪徳な警察?徳敏(現在は所長を務めている)は二人の詐欺犯罪者に私を監視するように命じた。?徳敏および李小玲らなどの悪徳な警察は犯人に私に何か知らない薬物を注射するように命じた。注射された後に私の全身の細胞はまるで離脱したかのように、精神系統も崩れる寸前だった。下は当時の情景を取った模擬写真である(図4)

図4−A  図4−B

 天津市板橋女子労働教養所では、常に邪悪と妥協しない大法弟子をこのように長期にわたって手錠をかけ続けるようにしていた。トイレも行かさないで、夏になってもこのように虐待していた。大法弟子は断食を通して抗議すると、悪徳な警察はこのようにして学習者を長期にわたって手錠にかけ、同時に残酷な灌食を行った。下はその模擬図である(図5)

図5

 2001年4月に、私を監視していた犯人が私に、武清大法弟子の劉淑平さんのことを教えてくれた。悪徳な警察は彼女を数日も寝させないようにし、彼女に懺悔書を書くように強いた。ある彼女を監視する一人の犯人?唯平(ある女の子)が、それを見るに忍びなくなって、劉淑平さんを寝かせた。そのとき中隊長の郭怜が入ってきて、?唯平は郭怜に対して「お願いだから、彼女を少しだけ寝かせて上げましょう、あまりにもかわいそうじゃありせんか」と言った。そこで郭怜は彼女を押しよけて、劉淑平さんを起こしてから、?唯平の刑を延期した。悪徳な警察たちは絶えず裏で動揺しない法輪功学習者のデマを作っていた。面会の日に私の母に私が常に他人に食べ物を要求していたと嘘を言っていたことが、その場で暴かれた。なぜなら私の母は私をよく知っているからだ。悪徳な警察たちは母に痛ましく言われた。悪徳な警察韓金玲は?徳敏の次にもっとも邪悪な悪人であり、手には大法弟子の血で染められている。

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2004/11/22/89765.html