日本明慧


弟劉成軍の追憶(写真)

 文/劉成軍の姉劉琳

 【明慧ネット2004年11月14日】編集者より: 2002年3月5日、幾人かの法輪功学習者が眞相を伝えるビデオを、長春のケーブルテレビで放送した。彼等の勇敢な行動は世界中の人々に衝撃を与え、国際社会に強い衝撃を与えた。劉成軍はその主な関係者の一人であった。

 1997年頃、多くの法輪功学習者は一日に"転法輪" を一講から三講勉強したが、劉成軍は毎日"転法輪" を一冊読み終えるのであった。仕事がどんなに忙しくても、どんなに疲れていようとも、彼は帰宅してから"転法輪" を読んだ。時には"転法輪" を勉強する為に夜通し起きていたり、一、二時間しか眠らなかったりした。彼は朝の煉功を決して欠かさず、それに遅れることもなかった。

                        劉成軍の家族

 私は一度弟の意志に励まされて、精進しようと決心したことがあり、弟と共に"転法輪"を読み通そうとしたが、午前一時を過ぎるとあまりに眠くて読み続けられず、寝てしまった。しかし彼はいつもそれを一冊、読み終えてから寝るのだった。彼が眠りにつくとすぐ、朝の煉功時間が来た。その頃、私の母の家が一つの煉功場であって、冬の凍るような天気の為に、多くの年配の人達がやって来た。長春の冬の朝は、暗くて寒い。私の母の家は大きくて、ゆったりしたリビングルームがあり、多くの人が煉功できる。しかし弟の成軍はいつも寒さをものともせず、前夜どんなに遅くなったとしても、外の煉功場へ行くのだった。成軍は実に修煉において精進していた。私は残念ながら、彼程良い修煉者ではなかったことを、認めなければならない。彼は一度私に言ったことがある、「古代の中国人は常人の知識を得る為に、長髪を屋根の梁に括り付けたり、錐で太股を突刺して、起きていたのです。私達は今宇宙の大法を学んでおり、将来二度と学ぶ機会がないでしょう。何故それを学ぶ為に起きていられないのですか? それは法輪功学習者達は、古代の中国人程も勤勉ではないということでしょうか?」

 成軍はよく法を勉強したので、法に従って自分を律することが出来た。彼が私に話したことを思い出す。彼の姑はよく、何の理由もなく彼を叱りつけ、時には手で打つことさえした。一度彼はもう耐えられないと感じた。頭が怒りで破裂しそうに感じた。丁度もう耐えられなくなったその時、彼は思った、「自分は大法弟子だ。腹を立てることなど出来ようか。師父が言ったではないか、"忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる" と」。すると怒りが静まり始めた。彼は踏台を姑の横に持って行って坐った。そして言った、「お姑さん、私を罵ったり、打ったりして怒りを晴らすのは一向に構いませんが、怒りのために自分の体を害さないようにして下さい」。彼の言葉を聞いて姑は笑い、すぐに罵るのを止めた。しかし、成軍は自分の部屋に戻るなり、泣き出した。彼は思った、「師父、あなたの教えを覚えています。あなたは教えました。"耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当に行けるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと[柳暗花明又一村]というように、眼前に新たな世界が開けることに気付くに違いありません。(大根器の人、転法輪第九講)"」彼は法の要求に従って、しっかりとした足取りで一歩一歩修煉の路を進んだ。

 1999年7月20日、私達は眞相を説明したく、長春市の省政府へ行ったが、警察の殴打に会い、不法留置された。十数人の警官が成軍を取り囲み、彼を殴り続けた。彼の服はあちこちひどく破れたが、彼は座禅の姿で山のようにじっとして、動かなかった。最後には十数人の警官が彼を車に運び入れ、長春郊外にある、長春警察学校に閉じ込めた。私達はその夜逃走し、北京へ上訪に行った。しかし、私達五人は拉致され、15日間不法留置された。

 1999年9月、成軍は再び北京へ今度は一人で行った。長春に戻ってから、彼は長春市奮進強制労働所に一年、の刑を言い渡された。刑が22ヶ月不法に延長された後、成軍はそこから正念をもって逃げ出した。彼が労働所に入れられたばかりの頃、悪警は大法弟子達を軍隊訓練の方式で罰した。法輪功と師父を攻撃するスローガンを叫ぶよう命令された時、成軍は直ちに隊から進み出て、大声で叫んだ、「そのようなスローガンは叫ばない!」 悪警は彼に飛び付いて、彼の鼻口から血が流れるまで殴った。それから悪警は彼に尋ねた、「スローガンを叫ぶか?」 彼は「叫ばない」ときっぱり答えた。彼等は再び彼を殴り始め、残りの大法弟子達に尋ねた、「他にスローガンを叫ばない者は居るか?」 すると三人が隊から進み出た。そこには70 ~ 80人の大法弟子が居たが、たった4人が進み出た。悪警は4人を皆の前で残酷に殴った。繰り返して殴られた後、成軍は窓の無い部屋に7日間閉じ込められた。

 後日奮進強制労働所は、法輪功を攻撃する為の集会を催した。成軍と幾人かの同修は、集会をボイコットすることにし、結局無理やりに集会に放り込まれてしまった。集会所は邪悪の気が立ち込めていた。悪警が集会開始を告げるなり、成軍は叫んだ、「このような集会には参加しない!」。集会場は大混乱した。悪警は成軍に飛び付き、彼を外へ放り出した。それから悪警は成軍に八本の電気棍棒で、電池が無くなるまでショックを与えた。次に彼等は彼を小さな監禁室に閉じ込め、そこで彼は手錠を掛けられ、手錠で空中に吊された。彼は二昼夜食べ物も飲み物も与えられず、手洗に行くことも許されなかった。手錠は彼の手首に深く食い入り、多量出血を起こした。

 当時まだ師父の経文 "大法弟子の正念は威力のあるものである" は掲載されていなかったが、後程彼は邪悪の要求や命令に、応じてはいけないと気付いた。新しい認識を得るなり、彼は行動に移した。囚人のユニフォームを着る、強制労働をする、又は悪警を"官教" と呼ぶことを拒否した。彼は、「私は囚人ではない、正々堂々とした一人の大法弟子だ。誰も私を訓戒する資格はない」。悪警が他の大法弟子を殴るのを見ると必ず彼は叫んだ、「止めろ! 人を殴るんじゃない!」囚人が大法弟子の私有物を盗むのを見ると、必ず彼は厳かに話した、「盗んだ物を返しなさい。盗むことは悪いことだ」。

 彼の正念と正しい行動は、邪悪を鎮めるのに有効であった。彼等はもう彼の前では悪行を行なおうとしなかった。悪警は成軍を尊敬して、公に言明した、「劉成軍を見ろ! 何と立派な精神の持ち主であろうか!」後日彼は厳格監視組の処に監禁され、そこで彼は正々堂々と大法を証明し、眞相を伝えた。多くの囚人達は法輪功の眞相を理解し、法の勉強と功法を習いたがった。それで成軍は獄室で彼等に動作を教えた。

 強制労働所から釈放された後、私はあらゆる方法をもって師父の新経文を、掲載されるなり成軍に渡すよう努めた。彼はすぐに書き写しを何枚も作り、他の留置されている同修達に渡すのだった。その上、成軍は強制労働所のそのような厳しい環境に監禁されていながらも、"転法輪"の書き写しを二冊作ることをやってのけた。彼は又、私が渡した師父の経文の殆んどを諳記した。全ての悪警達は彼が師父の経文を配っていることを知っていたが、誰も何もしなかった。

 世界中の大法弟子達が、他の空間の邪悪を消去する為に発正念を開始した時、私は彼を訪問して正念の発し方を教えた。私は彼に、他の空間における大法弟子と邪悪の激烈な交戦情景について話した。又、中国内外の大法弟子達が大法を証明する為の、偉大な勢力を形成したことを彼に話した。それ以来彼は法の勉強と正念を発することに、毎日を捧げた。最後には彼は発正念の口訣を廊下の壁に大きく書いた。その為に悪警は彼の刑を1ヶ月延長した。彼は応じて言った、「あなたが言う事は勘定に入りません。師父の言う事だけが、勘定されます。私自身の言葉だけが、勘定されます」。それから彼は逃走の準備を始めた。

 2001年7月16日、父と夫と二人の同修と共に、私は奮進強制労働所へ行って、弟の成軍の釈放を要求した。これ以前にも私は同じ目的でそこを二度訪問した。幾人かの副所長に話し、最後には周所長と話し、弟を釈放しなければならないと言った。2001年7月14日、私は三人の同修と奮進強制労働所へ行った。私が周に話す間、彼等が正念を発して助けることが出来た。又他の同修達にも、私が戻るまで、私の家で正念を発し続けるよう頼んだ。始め周は私達に対し、敵意ある態度であった。彼は言った、「劉成軍を釈放する? 気が違ったんじゃないか?」私は厳粛にそして鄭重に、彼の行為の利害関係を話し、法輪功の眞相を伝えた。同修達の力強い正念が加わり、彼の態度はまもなく変化し始めた。彼は私達に微笑みかけさえし始めたが、不思議そうに聞いた、「どうしてあなたは法輪功を学習しているのに、留置されないのだろうか?」 私はすぐに彼を制止し、「それは間違った考えです。何故法輪功学習者達は拉致され、留置されなければならないのですか? 私達は良い人になろうとしているのです。もしもあなたがこれら良い人になろうとしている人々を迫害し、彼等に害を与えるなら、結果として大きな不幸に見舞われることになります。何故なら天はそのようなことを許さないからです。冷静に、理性的に自分がやったことを考えて見ることは、御自分の為になりますよ。御自分の為に賢い選択をして下さい。今日私の弟を無条件で釈放することは必須です。さもなくば、私達は帰りません」。

 彼は後程、二日後に成軍を釈放する約束をした。それは7月16日にあたり、次の条件付きであった: "610室" 又は "司法局" が来て釈放を許可しなければならない。私は彼の条件を拒否した。だから私達は7月16日月曜日に弟を迎えに、強制労働所まで来なければならなかった。私達はすぐに周に会いに行き、何も言わずに、発正念を始めた。暫くの後彼は電話を取り、管理科の韓科長に成軍を釈放する手続きをするよう言った。私の夫は、聞き間違いではないかと思った。彼は実際に周が弟を釈放するとは、予測していなかった。私の父親も同じであった。彼は成軍が釈放されるとは信じていなかったので、彼に面会させてくれるよう要求した。しかし私は師父の言葉を信じる、"大法弟子の正念は威力のあるものである"。

 しかしながら、周の事務所の電話が突然鳴った。彼は電話を取って、あわてふためいて、「囚人が逃亡した! 囚人が逃亡した!」と叫びながら部屋から出て行った。彼は恐れと緊張で声が震えていた。廊下は大騒ぎになった。獄舎の警備は皆階下へ走った。周は事務所に急いで戻り、銃を持って再び出て行った。私も又ショックで緊張した。私は周に続いて事務所から出、あらゆる処を見回した。ポリスカーが全部出動し、警官達は皆武器を持って走って行った。私の心は空白になった。それが成軍であるという、予感がした。夫と私は階下へ走り、入口の処で婦人警官が数人おしゃべりをしているのが見えた。私は彼女等の方へ行って、何が起きたのか聞いた。一人が言った、「厳重監視下にある法輪功学習者が逃走したのです」。私は "王成軍" という名を聞いたが、すぐにそれが弟の劉成軍のことであると分かった。何故なら厳重監視下にある法輪功学習者は、彼だけであったから。

 それから警官が叫んだ、「急ぐんだ。劉成軍の書類を出して、逮捕命令を用意するのだ」。これを聞いて私達は、弟が無事に逃げ果せるよう正念を発しなから、急いでドアの外へ出た。すると、ドアの外で正念を発していた二人の女性大法弟子が駆け寄り、劉成軍に似た人が歩道から飛び降りて、北のとうもろこし畑の方へ走って行くのを見たと言った。「それは、彼です」と私は言った。「彼の逃走を助ける為に、一緒に正念を発しましょう」。

 接見室は閉じられ、訪問客は皆追い出された。父はニュースを聞くと、非常に恐れた。私は彼に言った、「恐れることはありません。考えを正しく持つべきです。今から私達は強制労働所に成軍を要求するべきです。彼等は私達の家族の一員を失い、彼はどんな危険に逢っているか分からないのです」。父は同意して、頷いた。私達は帰宅するなり繰り返して、正念を発した。二時間後、所長の周がやって来て、責任逃れの為に、釈放の通知をくれた。彼は言った、「彼が逃走したことは、誰にも言わないで下さい。彼は釈放されたのだとだけ、言って下さい。彼が逃げた時、どちらにしろ私達は彼を釈放するつもりだったのです」。そう言ってから急いで去った。成軍はその夜戻り、同修の家に泊った。彼は無事であった。

 2001年10月1日、成軍は三度目に一人で北京へ行き、天安門広場へ行った。彼は "法輪功は良い"というバナーを広げて、心より「法輪功は良い」と叫んだ。一群の警察に追っかけ廻されながら、彼は広場を大きく走り廻り、結局警察は彼を捕まえて、残酷に殴ってから閉じ込めた。成軍は自分の名を言うのを拒否し、警察に協力するのを拒否した。彼は不法留置に抗議する為に、絶食絶水ストライキを始めた。警察は彼の服を脱がせて、北京の公安病院のベッドに裸のまま手錠で固定した。彼は動くことが出来なかったが、思った、「私はまだ舌があるのだ」。それで彼は廻りの人達に、邪悪を暴露し、眞相を伝え続けた。

 獄舎付の医者達は、様々な方法で成軍を拷問した。彼は毎日強制食物摂取やIVに抵抗し、命がけで拷問と闘った。何日後かには彼の顔、鼻、口、喉等は、強制食物摂取の為にひどく傷ついた。彼の身体の他の部分は、更にひどく傷ついた。喉と口の傷の為に、彼はもう話すことが出来なかった。それで彼は正念を発し始めた。絶食22日目、警察はまだ彼から何も、彼の名前さえも聞き出せなかった。成軍は、痩せ衰え、非常に衰弱した。彼は自分の生命が尽きるのを感じた。彼は心の中で師父に叫んだ、「師父! どうぞあなたの弟子を助けて下さい!」それから彼はカササギが窓の外で鳴くのを聞いた。(中国ではカササギは幸運をもたらすと、考えられている。) 次に獄舎付医者が近づいて言った、「ほんの少しスープを飲むなら、あなたを釈放してあげます。そうでなければ、釈放してもあなたは家へ帰る力もないでしょう」。それで彼はスープを飲んだ。彼等は死刑囚が残した服と靴を彼に持って来て、無条件で彼を釈放した。

 彼は鉄道の駅まで苦労して歩き、売店で飲料水を一本買った。あまりにも力が無く、坐って休まなければならなかった。休んでいる間に、彼は売店の老女に、自分が法輪功学習者であり、拷問を受けて死ぬ間際まで行き釈放された事を話した。その老女は泣いて興奮して言った、「わが子よ、あなたは何と良い子でしょう! 私も又法輪功学習者です!」それからこの年老いた同修は成軍の為にタクシーを呼び、飲食物を買った。彼女は長い時間をかけて、成軍にさよならを言った。二人は互いの手を取って泣いた。後で成軍は私に言った、「その時私は師父の洪大な慈悲に、感謝する言葉もないと感じました。それは全て師父の慈悲深い按配の一部でした」。

 2002年3月5日、劉成軍等、幾人かの長春の大法弟子が、眞相を伝えるビデオを長春のケーブルテレビを利用して放送した。それは国際的に強大な震動を起こし、世界中の人々を驚かせた。これは宇宙の法を正す歴史に、永遠に記録されるだろう。

 2002年3月24日、成軍はテレビ放送が原因で、捕えられた。その後は、彼は無数の残酷な拷問を受けた。2003年10月21日、吉林監獄から電話があり、成軍はもう長くないから最後に一度会いに来るよう言われた。その前日に私は強制労働所から釈放されたばかりであったが、家族の者と共に急いで吉林市中央病院へ彼に会いに行った。無数の残虐を経て、成軍は息も絶え絶えで、死の寸前であった。骸骨のように痩せていて、両目は深く落ちこんでいた。視野がかすみ、物がはっきり見えなかった。心臓と腎臓は機能していなかった。喉は重度の感染を起こしていた。全身は傷で覆われていた。話すのが困難で、一音を発することさえ難しかった。私は彼の両手を握って言った、「成軍、姉が来ました。療養の為の仮出獄許可を申し込みました。もうすぐ家へ帰れるでしょう」。彼は大変な努力をして言った。「どんな.... ことにも .... 執着....しては....いけません」。私は泣くのを止めることが出来なかった。私が悲しみに圧倒されるのを見て、成軍は私の手を揺らし、目を開けようと苦闘して、非常な困難をもって言った、

                   "大覚者は困難を恐れない
                    鍛えられた金剛の意志を持ち
                    生死に執着せず
                    法を正す路を堂々と歩く" ("正念正行" 洪吟 II 、非公式訳)

 そこに居た者は皆泣いていた。彼ははっきりと話すのが困難であったが、私達は皆彼の言うことを理解した。彼は師父の詩 "正念正行" を暗唱していたのだ。次に彼はガードマンを指さして言った、「この人は私の下の世話をしてくれました。私の死後彼には良くしてあげて下さい。彼を救わなければなりません。」皆感動して泣き出した。ガードマンの目にも涙が溜り、彼は言った、「何てことありませんよ。私がやるべきことなのです」。私は成軍の衰弱した、それでいて堅固とした面持ちを見ながら、彼の手を握っていた。私は何も言えない程ひどく泣いていた。

 これは私の幼い弟だった。彼は大法に鍛えられた頑強で偉大な生命であった。自分の生命が危機にある時でさえ、彼は他の人のことを考えていた。

 成軍、あなたを家族の一員として、又同修として、私達は大変誇に思う。あなたの正念正行は、私達の正念正行を強めた。私達は法を証明し、眞相を伝える残りの旅において、より良く行なうだろう!

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/11/14/89135.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/12/24/55885.html