文/龍泉墨客
(明慧日本)昨年の年末から、中共の『代弁者』は法輪功の弾圧をさらにエスカレートするために新しい専門記者の田雨氏を起用した。中共の『代弁者』である各媒体は、新華社が2005年1月18日鄭州新聞で田雨氏が取材した所謂「焼身自殺事件の当事者」を転載した。記事には、「焼身自殺」の当事者薛紅軍が、「我々を偽者だと言っているが、それは天理に背いた不公平な話だ。我々は何年も修煉してきた。私も1994年から修煉をしている』と、書かれている。
明らかに田雨氏は原稿を発表する前、別の中新社の前の記者と打ち合わせをしなかったようである。2002年4月9日の人民ネットに掲載された中新社記者の潘旭臨氏が、鄭州で報道した『天安門広場焼身自殺者の王進東、薛紅軍が荒唐無稽なことを言った』の中で、このように書かれてあった。
「天安門焼身自殺を計画した首謀者の一人である薛紅軍が、王進東らと天安門広場で焼身自殺を密かに計画した記憶は今だ新しい。彼は、『当時、私と王進東たちは法輪功を練習し始めてからちょうど一年になった頃で、洪法をしたこともなかった』と、話している。」 報道記事には更に、薛紅軍は『ネットからの指令』を絶えず読み、最終的に焼身自殺を図った、と書かれていた。
田、潘両氏の報道から推理して、1994年から煉功を始めた薛紅軍が、「天安門焼身自殺事件を計画した時」に話した『…法輪功を練習し始めて一年になった頃』というのは、逆算すれば1995年〜1996年前後である。所謂「天安門焼身自殺事件」が発生した2001年より5〜6年も前になる。当時の中国のインターネット事業はまだ始まったばかりで、国内も数少ないBBSネットしかなく、法輪大法の明慧ネットもまだ出来ていなかった。果たして薛紅軍はどこから『指令』を受け取り、「焼身自殺」の遂行を決定したのだろうか? 真に法輪功を信仰とする人は、決して自分が何年から煉功を始めたか記憶していない人はいないであろう。更に、薛紅軍の「密かに焼身自殺を計画」、「記憶に今だ新しい」については、田雨氏、潘旭臨氏、及び組織が相談したもので、インターネットの歴史を改めなければ、かえって絶えず発令された『指令』の合理性に影響する。
ところが中共江沢民集団に面倒をかけたのは記事を書く未熟な手先だけではなく、江沢民集団にコントロールされていない外国記者の記事も江氏にとっては面倒をかけられたのである。著名な「ワシントンポスト」は2001年2月4日のトップニュースとして発表した『焼身自殺は中国の黒幕を明らかにした——大衆の面前で行われた焼身自殺の目的は法輪功に対する闘争を更に強めるであろう』である。ワシントンポスト紙の記者フィリップ・パン氏は、自ら「焼身自殺」によって死亡した劉春玲の故郷である開封市へ現地調査に行った。隣近所の人々の話によれば、誰一人も劉春玲が法輪功を練習していることを知らないし、見たこともなかったと言う。「ワシントンポスト」の報道は瞬く間に米国国内、そして海外にまでに及んだことで、政権を執行する江氏集団の名声とその『代弁者』が発表した報道の信頼度にまで影響した。新華社の開封市の記者王阿敏氏、王恆濤氏が2月8日に劉春玲は法輪功弾圧後の1999年7月以降に法輪功の練習を始めたと説明した記事を発表した。記事の中で、『劉春玲親子二人はよくカーテンを閉めて家の中で煉功をしていた。煉功する時は娘、思影の仲良しまで家に来させなかった。』 この記事で取り敢えず「ワシントンポスト」の調査結果と一致していることを証明したのである。所謂、『弾圧を始めてから、劉春玲は公に煉功ができなくなった。それが何故近所の人々が誰も知らない理由である。』 しかし、阿敏氏、王恆濤氏の考慮に欠けていたのは彼らの記事の内容と1月30日新華社が発表した匿名記事の内容と辻褄が合わないことである。匿名記事「天安門広場焼身自殺事件の経緯」の報道では、『劉春玲は長い間法輪功に夢中になっているだけでなく、12歳の娘劉思影にまで影響を及ぼした。劉思影は母親の影響で1999年3月から自宅で煉功を始めていた。』 この記事からすれば、母親の劉春玲は少なくとも法輪功が弾圧される1999年7月以前から煉功を始めていたのである。これで『長い間法輪功に夢中になっている』ことの説明がつくのである。今回『代弁者』である記者たちが発表した記事は「焼身自殺事件」をでっち上げた組織の信用をまさに撃沈したのである。
実際に、『代弁者』の記者たちは江沢民が率いる組織に面倒をかけたことは「焼身自殺事件」が始まりではなかった。法輪功の弾圧が始まった当初、江氏集団が騒ぎ立てた法輪功創始者の生年月日問題に合わせて、新華社記者徐家軍氏は1999年7月29日の「人民日報」の第一面に次のような記事を出した。『現在80歳の潘玉芳は1952年に李洪志さんを助産したと話した。潘玉芳は47年前のこのことについて記憶に新しく、日にちまで覚えていると話した。潘玉芳は李洪志さんが生年月日を改竄していると指摘した』のである。報道の信用性を高めるために潘玉芳は当時陣痛促進剤を注射したことを付け加えたのである。
しかし、陣痛促進剤を臨床に実用したのは1953年以降のことである。潘氏は1952年当時、どんな先進技術で製造された陣痛促進剤を使用したのだろうか? 『ブリテン英百科事典』によれば、科学者は1953年に陣痛促進剤の分子構造を発見し、同年、実験室にて陣痛促進剤の合成に成功したのである。初めて陣痛促進剤の人工合成に成功した米国科学者Vincent du Vigneaud氏は1955年にノーベル化学賞を受賞したと記載されてある。記者たちがどうしても潘玉芳の『記憶に新しい』ことが確実な情報であると報道したならば、ノーベル化学賞評議会に異議申し立てをし、Vincent du Vigneaud氏より先に陣痛促進剤を使用した潘玉芳にノーベル化学賞を与えるべきであろう。
勿論ノーベル化学賞の評議会の委員達はこの要求に応えるかどうかは分からないが、ここ数日間『代弁者達』がスキャンダルですき間だらけの天安門焼身自殺事件を新たに取り上げたことによって、国内及び海外の人々が真相を知り、記者たちのでっち上げの黒幕について益々分かった人が増えることははっきりと言えるであろう。江氏集団の嘘、偽りを続けさせることができず、昔のことを掘り返したのである。江氏集団が作り出した嘘は大きくすれば大きくするほどますます丸く収められなくなる。歴史において、もうすぐ淘汰されてしまう江氏集団も自ら乗りかかった船からは降りられないことを知っている。田雨氏らも分かっているのであろう。しかし目先の利益に目が眩み、良知を捨て未来を捨てても、江氏集団と共に滅びることを選んでしまったのである。諺の中の、欲得は頭をぼんくらにさせる、ことを思い出す。田雨氏らは自分たちの良知を再び蘇らせる時はあるのだろうか?