日本明慧


母子が苦難の末再会(写真)

 文/シカゴ法輪功学習者

 【明慧ネット2005年2月3日】2005年2月1日は、法輪功学習者の徐志偉さんと彼の母の張翠さんにとってはまさに一生忘れることのできない日であろう。なぜなら中国共産党政権の法輪功に対する迫害のため、この母と子は遠く離れて8年間もあえなかった。この過ぎ去った8年間の中で、徐志偉さんの家族は、母が法輪功を修煉したために中国で二度も不法に拉致され、家財を没収され、パスポートが没収されそして父が死去するなどの苦難を経験してきた。そして彼本人も、パスポートの延期が拒絶されているために帰国しても母を見舞いすることができなかったのである。そしてたった一人の息子として、徐志偉さんは海外で5年間に渡る母を救援する活動に携わってきた。最終的には海外の法輪功学習者の努力の下で、そして米国参議院および衆議院両院の議員たちの正義な支持の下で、8年間離れ離れとなった母と子はついに再会することができた。シカゴのオハル(O’Hare)国際空港で、母と子が再び抱き合い涙を流すとき、周りでたくさんの人たちも思わず涙を流した・・・新唐人テレビ局およびシカゴ毎日新聞(Chicago Daily Herald)も現場で取材し、この感動的な一瞬を記録することができた。

              8年間わかればなれの母と子がついに再会できた

 母の物語

 1997年に、徐志偉さんは渡米の旅に出て、すべての海外留学生のように、米国で博士課程を専攻する留学生活が始まった。彼は一人っ子だから、自分の願いとはアメリカで立脚できてから両親を家に迎え入れることだ。そして遠く離れて一家団欒の楽しみを期待する両親もこのときはやはりこの一人息子と団欒することだ。しかし、本来ならこのもっとも普通の願いが1999年に中国共産党江沢民政権が法輪功を弾圧するときから破滅してしまった。

 徐さんは「私が物事を覚えるようになってから、自分は腕白で、勉強嫌いで、毎日事故を起こすような子でした。両親はそのため本当に大変気を使っていました。特に私の母は、短気な性質がさらにひどくなりました。両親はごく普通の労働者で、毎日の仕事の量も非常に多かったのでした。母さんが50を過ぎてから、体のすべての器官に病気を患い、特に心臓、胃は最もひどくて、病院から危篤の通知書さえ出たくらいですから。このときの私はすでに物心がつく年になって、そして優秀な成績で地元の唯一の大学生になったのですが、これらすべてでは母の弱まっていく体を元に戻すことができませんでした。そして1995年になってから、母は一種の緩やかで、ゆっくりと円を描く気功を修煉し始めるようになりました。私は自分の目で法輪功がどのようにしてひとりのかっとなりやすく、そして体質の非常に悪い中年の女性を、一人の度量の広い、肌色もよく、健康的な女性に変えたのかを見たのです。その天地の格差は、今でも友人や親戚の間でよく語られているのです。

 母の第二の生命が始まったと、私は感じました。その活気にあふれる生命力は私の出国、結婚等の喜ばしいことからきたのではなく、それは彼女の内在するある種の昇華から来たのです。母はこの昇華こそは李洪志先生が教えていた真・善・忍といいました。母にはひとつの願いがあります。それは私たち家族全員が、真善忍の法理の中に入ることで、それこそ天下でも最も幸せな家庭になると言ったのです。しかし1999年7月20日以降、中国大陸では、数千万ものこのような幸せな家庭が破壊されたのです。天地をも覆い隠すほどの法輪功に対する弾圧が始まってから、母の心は砕けたように悲しんでいました。彼女にはどうしても政府の言動を理解することができなかったのです。母は地方の政府に対して訴えましたが、それがなしの礫のように、なんの返事もなかったのです。母は地方の公安部門に対して訴えましたが、却って監視されるようになりました。母はもうほかの方法がなく、ただ2000年最初ごろの冬の日に北京の陳情オフィスに行くしかなかったのです。そのときの願いはただひとつ、それは政府に対して、法輪大法はすばらしい!と告げることだと、母は言いました。しかし彼女にもたらされたのはなんでしょうか?監禁、拘留、強制送還、家族との面会を許されないなどでした。さまざまな不公平およびだんだんとレベルを上げられていく弾圧に直面して、母は彼女の信仰の自由のために断食を始めたのです。」と語った。
 この落ち着いた、顔色のうす赤いお母さんをみて、本当に信じられないことに、彼女は10日間も絶食し続けていた!

 彼女自分の紹介によると、「私が断食してから10日目になっても、私の身体の状況はすべて順調でした。看守所の人間および医者も私を“仙人だ”と呼んでいました。私はただ一人のごく普通の法輪功学習者なのです。私の第二の生命はすべて法輪功を修煉したためその延長が得られるようになりました。私のような人が中国では何千万もいます。どうして自分の良心にそむいて法輪功は悪いといえるのでしょうか!?」と語った。

 2001年4月に、徐志偉さんの母の張翠さんは一緒に修煉する人に経文を送ったため、人に告発され、再び拉致され投獄された。今回の逮捕で、徐志偉さんの両親の武漢にある自宅の家財が没収され、家の中には壁しか残らず、法輪功の資料、徐志偉さんが家に書いた家書および郵送してきたドル札と彼の母のパスポートも含めて、すべて警察に持ち出された。張翠さんのパスポートが没収されたため、母と子との団欒の希望はさらに渺茫なものとなった。しかし海外にいる息子は母を救う活動を始めるようになった。彼がこの事件を海外で暴露してから、市の公安局の者は徐志偉さんの両親に対して「あなたたちの息子に海外でこれ以上面倒なことを起こしてほしくない、私たちの以前のあなたたちへの“待遇”を許してください」と言った。

 徐さんの父は数年間に渡る家庭における巨大な変化のため、心身ともに過度の疲れが重なり合って、残念ながら2003年に母一人を残してこの世を去った。しかしまさか徐さんが母を救援するためあちこちと駆け回るとき、中国共産党がすでに法輪功に対する迫害を海外にまで伸ばし、彼本人および家庭も被害者となることは、彼にはどうしても想像つかなかった。

過去の五年間に、徐さんは常にメディアの取材の方法を通して世の人々に自分の物語を語り、法輪功への迫害を停止するように呼びかけていた。写真は2001年にアメリカCBSテレビ局新聞放送の取材の時より

 ある普通の海外の法輪功学習者の家庭の物語

 徐志偉さんの母の影響を受け、1997年から、徐志偉さん夫婦とも法輪功を修煉する道を歩み始め、そして常に地元および学校内で法を広めていた。徐さんは紹介しながら、「海外では、学業および生計などからの圧力はきわめて大きいものです。私たちは確実に法輪功の法理および修煉の方法が私たちの度量を広め、生命力あふれ、家庭もさらに仲良くなっていたのだと、深く感じています。また私たちの共同にもつ信仰のため、私たち夫婦二人が助け合う中で波瀾な日々を乗り越えることができました。学校では、私は成績が優秀で、そしてバスケットボールが上手い上、いつも他人を助けていたため、私はたくさんの友人を作ることができました。私たちは常に周囲のすべての華人に法輪功の深遠さおよび内方の深さを告げてきて、そして友人たちも非常に信服しているのです。私たちはほかの学習者たちと一緒に常に学校で法を広め、煉功していました。しかし1999年に法輪功を弾圧し始めてから、学校の中国留学生の会長は私に、夫婦二人の名前はすでに領事館に申告されたと告げられたのです」と語った。

 2001年5月に、徐さんは優秀な成績でコンピュータの博士課程を獲得し、そしてモトローラ中心実験室の高級研究員となり、家もシカゴにひっこした。シカゴでは、すべての法輪功学習者と同じように、いつものように平和的に中国大陸で法輪功に対する迫害および「真・善・忍」に対する蹂躙を停止するように呼びかけていた。

 徐さんはまた「シカゴには中国領事館がひとつ設置されてあります。シカゴに来着てから、そこも私たち夫婦が最も行く場所となったのです。なぜなら私は、そこは唯一の海外で私たちの心からの声を反映できる場所だと感じたからです。私たちはそこにいき、中国の在外の館員に、アメリカでもたくさんの人々が法輪功を修煉し、そして私たちの法輪功への迫害を停止するとの呼びかけを伝達してほしいとつげました。それと同時に、私は母の事件のことでCBSをもふくめた多くのメディアからの取材を受けたのです。」それと多くの記者会見での発言、迫害を停止する呼びかけなど。

 2001年の終わりに、徐志偉さん夫婦の子供が生まれました。徐さんは感慨深そうに「あ
の瞬間から、私は始めて中国のある古くから言い伝えてきた言葉:子を養育して初めて、両親の恩を知るという言葉を実感したのです。しかし私の母は彼女の孫を抱くことすらできませんでした。私は一人っ子ですから、私には母の遺憾および渇望を理解することができます。なぜなら中国共産党が家財を没収することで、母が失ったのはただのパスポートではなく、一人の公民そして一人の祖母としての最も基本的な権利を失ったのです。」と語った。

 2002年4月に、子供が5ヶ月くらいになったとき、徐志偉さんのパスポートは期限切れとなって領事館で延期の手続きをする際に、中国領事館にパスポート延長の手続きを拒絶された。つまり徐志偉さんはそれ以降、合法的なパスポートを失ったことを意味する。彼は「私は領事館に自分の名前が知られているのを知っていますが、しかし一人の公民として正常な手続きをするのは最も基本的権利ですが、まさか中国共産党の目から見る法輪功学習者とは、これほど権利のないものだったとは」と語った。

 聞くところによれば、領事館が徐志偉さんのパスポートの延期を拒絶する際につけた理由とは“国家の安全を脅かす罪”であった!しかしこの“巨大”な罪名にはなんの理由および具体的な内容もなく、領事館はただ何度も彼らが上層部の指令を執行している、彼らには権力がない云々と答えを繰り返していた。このように、合法的なパスポートのない徐志偉さんには、帰郷して両親を見舞うこともできず、母と子との団欒の希望もさらにはるかなる届けることのできない夢へと化した。

徐さんは2002年に領事館内で手続きをしにくる華人に対して声明を発表し、領事館がパスポートの延期を拒絶した経過を伝えていた

 海外からの救援・正義の叫び声

 中国共産党が法輪功を迫害し始めたその日以来、徐志偉さんは母を救援する活動を停止することはなかった。メディアによる取材を受け、国会参議院と衆議院の両院の議員たちを訪問し、法を広める活動に参加し世の人々に母の物語を伝えるなどの方法を通して、ますます多くの人々がこの親子が遠隔の地に離れ離れで団欒することができない物語を知るようになり、より多くの人々が尋ねるようになり、そして助けたいと声をかけるようになった。会社の同僚が自発的にメディアを連絡し、海外の法輪功学習者全体の努力の結果、イリノイ州連邦参議員、衆議員オフィスは再びアメリカ在中国大使館に連絡することを重視するようになった。人々が今回の法輪功に対する迫害の真相を知ってから、各地からの正義の叫び声もますます多くなり、とくに徐志偉さんの母が再びパスポートを取得した後に、ビザから入国までのすべては非常に順調であった。たくさんのさまざまの正義による努力の下で、ついに母と子との団欒の夢をかなえさせることができた。

 空港の中で、たくさんの人々がこの母と子との8年にわたる苦難の後に再会する場面に感動されて涙を流した。徐さんはメディアのインタビューを受けるときに、「母がアメリカに来て子を訪れるのは非常に平常なことです。しかし私と私の母は5年もの歳月を費やしたのです。中国共産党の法輪功に対する迫害のため、私たち一家全員が非常に遠く離れ離れとなり、お互いと再会できなくなりました。なぜなら共産党自体は宇宙および人類に反する存在で、その統治される国土に“真・善・忍”が存することを容認できず、江沢民が共産党とぐるになって、この空前絶後の迫害を発動したのです。その直接にもたらした結果は数千万もの法輪功学習者の家庭の破裂です。私たちの家族はその滄海の一栗にすぎません。では、なぜ私は今日再び母と会えたのでしょうか?それは、より多くの善良な、正義感のある人々が私たちに関心を寄せ、そして助けてくださったため、また今日この場にきて私の母を迎える法輪功学習者たちが、私の母を救援する際に、たくさんの学習者たちが助けてくださいました。これによって私はさらに中国共産党は法輪功を弾圧するのはもう長くは続かないと確信したのです。その弾圧の最初からもうすでに失敗の結果が定められていました。私は中国の人民たちも最後には必ず信仰の自由および基本的な人権を享有し、そして人類はさらにすばらしいものになるのだと信じています」と述べた。

法輪功学習者も空港で迎える 母と子が再会し、ことのほかに愉快である 母と子がともにメディアの取材を受ける

 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/2/3/94786.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/2/5/57186.html