日本明慧


台湾の大学生の修煉体験

 文/台湾大法弟子

 【明慧ネット2005年2月26日】

 修煉の機縁

 私は台湾の一大学生である。以前私は図書館へ行って、超自然な事に関する本を読むのを楽しんだ。これらから私は多くの魅惑的な説への洞察を得たが、ただ単に本を読むだけでは私の好奇心を満足することが出来ず、私はいつもこれらの事を自分で試してみたかった。だから私は自分で勉強する為に、多くの気功に関する本を買った。しかしそれらの内容は繁雑で、私はあまり時間をかけて勉強しなかった。

 偶然のきっかけで、私は法輪功を紹介する資料を見た。簡単に学べそうに見えた。五通りの動作を学び、心性の修煉を指導する転法輪を読む。他の多くの気功の本は、心性の修煉のような奥深いものがなく、単に動作についての情報だけの内容であったので、私はこれは非常に良いと思った。法輪功は又、真善忍を教え、殴られても殴り返さず、罵られても罵り返さないよう教える。私はとても魅力を感じ、これを試してみたくなった。

 『転法輪』と師父の海外での説法をさっさと読んだ。師父の著作は次々と私の疑問に答え、私が過去に出逢った、自分では決して解決出来なかった多くの問題に解答を与えた。それと同時に私の視野が広がり、今では問題を多角度がら見ることが出来る。人生の問題については、以前私は単に社会に順応し、殆んどの人が最善であると思うことを行なった。しかし大法を学んでからは、人生の真の意味が明白となり、今では心を開いて執着せずに物事に対処出来る。

 健康に受益する

 修煉を始める前、私はよく頭痛があった。医者の検査では何も異常が発見されなかった。医者は、近頃は人々はストレスが大きいと説明するだけで、私は頭痛を抑制する為の薬を飲まなければならなかった。しかしながら、薬を飲めば飲む程副作用が強く現れ、私の健康はよけいに悪化した。漢方薬も効果がなかった。しかし法輪功の修煉をして、私は違う人間になったように感じた。私はもうこれらの頭痛を抑制する薬を飲む必要はなく、よく眠れる。

 以前の疑問が解決する

 実際私は修煉を始める前にすでにこの質問を投げ掛け、友人たちとこのことを何度も話し合った。私は言った、「侮辱されても平気でいられたら、どんなに良いだろう」。しかしその頃は私は侮辱されて仕返をしなければ、面子を失ったと感じた。しかし仕返をした後は、事の成り行きは即座に悪化するのだった。その結果、口論や喧嘩まですることになり、その後は、自分の面子の為にそして自制力が無い為に友人と喧嘩をしたことで、心中非常に居心地悪く感じるのだった。

 しかし『転法輪』の中に私は真の理解を得た。今では侮辱されるとまず、自分がその人に何か間違ったことをしたのかどうかと考える。私は最大限に善意と寛容をもって他の人に対することを学んだ。この理解は転法輪の法理から得たのである。

 人生観を改変する

 修煉する前は、他の人達の良い面を見ると、私は非常に羨ましくなった。他人の良い成績だとか、聡明さや富を見ることは、私に自分がそのようでないことに不平を言わせた。私は天が自分に対し不公平であることに、不平を言い、自分の両親を責めさえした。しかし修煉を始めてからは、このような妬みの気持は自然に消え始めた。

 修煉する前でも、他人と競争することは疲れ、骨の折れることであることが、私には分かっていた。にもかかわらず社会という染め物瓶が、名利心の為に闘い競争するよう促した。何かを追求している時、私はしばしば不当な方法を使った。望みの物を獲得した後、良心の呵責を感じ、他の人が私の不当な手段を暴くのではないかと恐れた。そのような心理的苦悩と安らぎの無さをもって生きることは、最も辛いものである。修煉を始めてからは、失と得の法理を悟り、人を騙す代りに、時々忍をもって人に対するようになった。このような、名利や得に対する自然な無頓着は、実にすばらしい。

 より良い人格

 修煉を始める前は、私はつまらない事でよく怒った。人から注意されたり、自分の利益が損なわれると、私は表面では笑っていたが心中非常に不満に思い、恨や憎しみさえ感じた。しかし法輪功の心性の修煉を通して、失と得の法理を真に理解するようになった。今では私は断然と放下することが出来、そのようなものに心を動かされること無く、心中不満を持つことも無くなった。

 言い換えれば、私の問題の見方が変ったのだ。修煉を始める前は、私は何事においても、自分の利益を気にしていた。ある行動が私の損得に影響するかどうかを考慮した。法輪功の勉強は、私に相手の立場を考えてから行動をとるということを分からせた。これは自分のことしか考えていなかった、以前の利己主義のようではなかった。利益に関する人との衝突において、私は今では自分が法輪功学習者であり、真善忍をもって人に対するべきである事を覚えている。

 具体的なことを成す体験

 他の人が不注意であったり誤りをおかした時、私は今では自分の内面を見、自分が何か間違いを犯したか漏れがあった為に、その人が不注意になる原因を作ったのかと考える。人を責め続けることはしない。つまりもっと広い見方をする。ある事が誰かの責任であるというだけで、その人だけがやるべきであるということはない。むしろそれは、大法弟子の一体の一部であるべきである。彼の責任はまた私の責任でもある。あなたの仕事とか、私の仕事だとか分けるべきではなく、私達は共同で仕事を成し遂げ、それを良く行なわなければならない。

 屈しないことと自己暴露

 最後に屈しないという事について交流したい。法の勉強を始めた日から、私はそれが偉大であることが分かっていた。私は屈せず最後まで修煉する決心をした。しかしながら、過去二年の修煉において、困難や問題が起きる度に私は怠惰から、しばしば言い訳を見つけた。テレビを見たり、コンピューター・ゲームに熱中したりした。同修が助けを求めると、法の勉強をしたいとか、他の常人の言い訳を使った。自分を騙す為に多くの言い訳を使った。真でなかったばかりか、自分の執着をも覆い隠した。多くの執着を放下したくない為に、常人を超越することが出来なかった。

 法の偉大さを知る同修たちに、家に隠れていないで真の修煉をするよう望む。修煉においては様々な試練がある。試練に遭うと、ある同修達は挫折したり、或いは邪悪の干渉を受けたりし、人に会いたくなくなり、隠れる。一方ある同修達は、法理を深く理解し、心を揺るがすことなく状況に対処する。彼等はいつもはっきりとした頭で、試練を通過する。自己の観念は多くの事を制限し、私達はこれらの観念を用いて執着を覆い隠す。法を用いてこれらの観念を改めるなら、邪悪の干渉に出逢っても、正念をもってそれらを拒絶することが出来る。

 当然一切は法の勉強を良くし、真の修煉を着実にし、一歩一歩進むことから来る。途中、挫折に出逢っても勇敢に、隠れていないで同修達と交流し、問題の原因を見つけ、前進し続ける必要がある。

 以上はお粗末な私見である。不足があれば御指摘戴きたい。



(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/1/31/94592.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/2/23/57814.html