日本明慧


「調和のとれた社会」は人権を尊重することを基準とすべきである

 【明慧ネット2005年3月10日】今年の両会(※注1)のテーマは「調和のとれた社会」を作り上げるである。ここで両会と政協代表に注意してほしいことは、「調和のとれた社会」とは基本的人権の尊重を基礎としてもらいたいことである。執政者は中国の人権に対する踏みつけを放棄するよう促し、あらゆる迫害の政策を取り消せばようやく「調和のとれた社会を作る」の実質的な努力をすることが出来る。

 皆さんご存知のように、「調和のとれた社会」はまず現在の社会を構成する人々の間に調和がとれて打ち解けあっている関係が現れることである。良性の社会の構造と道徳的な基礎は社会の対立と衝突を解消させることができる。これによって社会を構成する人々の関係はさらに平等と文明に向かうことが出来る。従って基本的人権を普遍的に認可して尊重し保護することは、「調和のとれた社会」の避けて通ることのできない道になった。

 しかし、人々は、中国の執政者共産党の理論、本質から党の80数年以来のすることなすことの中で、中国民衆の信仰と言論の自由の基本的な権利を保護すると、共和国の憲法の中に書かれていることを発見した。それでも人々は、中国民衆の基本的権利は踏みにじられ悲惨な運命から解放されていないことに気付いた。

 この5年来江沢民をはじめとする中共集団の法輪功に対する迫害政策の例として、迫害の主な手段のため、扇動して恨みを作り、民衆の中に多くの猜疑、悪辣、恨みの種を撒き散らした。今日は仲間であり、いい兄弟、いい家族、いい同僚であっても、恨みの宣伝の媒体の攻めで、一夜にしてすぐ敵になり、危険人物になって必ず決裂して一線を画さなければならない。誰が本来あるべき社会の調和を引き裂いたのか?法輪功学習者は真善忍の教えに従っているので、これは執政者の弾圧によって変わるものでもない、また人々は凶悪な制で凶悪になることはできない。だから、表面的には大規模な社会不安になってないが、この迫害が全社会にもたらした深い傷は非常に致命的である。どれだけの人が冤罪で生命を失い、親戚を失ったか。どれだけの社会の財貨と資源がいい人を整備することに用いられるか。何人かの人は身の周りで起きている罪悪に対してまったく無関心で、無感覚だ。何人かの人は摘発して批判し、闘争し、弾圧して金銭や権力を得たため、かえって最後の少しの身を処する尊厳さえ失った。

 ひとつの「調和のとれた社会を作り上げる」のスローガンは、すべての罪悪を覆い隠して取り消すことが出来るのか?実はxx党の闘争哲学によって、調和のとれた社会を建てることは一種の夢でしかない。

 中国民衆の「人民代表大会」の機能に対する評価は「ゴム印」、xx党のため「政治が本を暗唱する」を完成することだ。実際その通りで、例えば、99年10月から、江の私欲の下で、いわゆるx教法に反対するを通じて、悪党に利用され、どれだけの潔白な民衆が傷付けられ、またどれだけのいい人が暗黒に押し込められたか?

 もし「人民代表大会」、政協の代表達が中国の未来に対して本当に誠意があるならば、中国民衆の利益を考え「調和のとれた社会」を作り上げ、中国の社会問題の根源を見直すべきであり、あわせて民衆を尊重し保護する基本的人権からやるべきである。

※注1:両会とは、毎年3月に北京市の人民大会堂で開催される「両会(全国人民代表大会と中国人民政治協商会議)」会議の総称である。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/3/10/96963.html