日本明慧


シンガポールの学習者と検討したい

 文/海外大法弟子

 【明慧2005年5月7日】4月27日、シンガポール裁判所は、二名の大法学習者に対し告訴されたすべての罪を成立させ、かつ高額な罰金を言い渡した。彼女たちは、その裁判結果を受けいれず、上訴することにした。被告側の弁護士が彼女たちを保釈するよう要求したが、裁判官はそれを拒み、法廷で直ちに罰金を支払うよう要求し、さもなければ即時に刑務所に入れると言い出した。その理由は、彼女たちは少しも「悔い」の意がなかったからだという。そして、数時間後、二女史は強引に樟宜女子監獄に入れられた。

 今回、シンガポールの学習者が遭遇した事件の本質は、裁判官と原告側の弁護士が法廷で詭弁強弁し、法律に基づいて法律を執行しなかったことだ。最近、インドネシアの学習者もそれに相似した境遇に合った。これらの問題に対し、私はここで自分の考えを述べ、これをもって皆さんと一緒に検討してみたい。

 師父が2005年2月26日、アメリカ西部国際法会での説法の中で、次のように教えられている。

 「一人の修練者として、自分をしっかりさせ、いかなるものにも動じられない正念を持つことができることこそが、本当に素晴らしいことです。まるで金剛のようであり、盤石のごとくびくともせず、誰しも動じることができないのであれば、邪悪は見るだけでも恐れるのです。もし、本当に難に遭った時に念が正しければ、邪悪と邪魔の前で、あなたが念が正しい話を一語話してもすぐに邪悪を解体させてしまうことができます。(拍手)邪悪に利用される人がきびすを返して逃げるようにさせることができ、よって、邪悪があなたに対する迫害を雲散霧消させ、邪悪があなたに対する邪魔を消失させ形を失わせることができます。こういった正信的な一念だけなのですが、誰がこういった正念を守ることができれば、その人はきっと最後まで歩むことができ、大法が創った偉大な神になれます。」

 したがって、裁判官や弁護士の理不尽な表現は、その後ろにある邪悪な素因に邪魔され、あるいは操られた結果だった、と私は思う。シンガポールの学習者たちが如何に考えているのかは知らないが、大法弟子としてその背後にある邪悪を取り除くべきだろう。これも、裁判官や弁護士に対する慈悲であり、彼らを救うことだ。発正念をする外に、邪悪に迫害される際に正念をしっかりと守ることができ、よって他空間にある邪悪を解体すべきである。この方面において、大陸の学習者が多くの苦しみに遭いつつ鍛えられているのでいよいよ成熟してきた。師父が説かれた法であるが、「ある学習者が一途に大法の真相を伝え、ずっと「大法は素晴らしい」と叫んでいた。どこに連行されても、悪警察が何を言ってもいっさい聞かないし、君が私をどれほどひどく殴っても罵っても、私はやはりこのままです。その労働教養所は驚いて、われわれはもう受けいれないと言って、すぐ返しました。そうしたのは、彼らが次のように考えたからです。俺たちは彼女を転向させることができないばかりでなく、また他の多くの者にも大きい影響を与えてしまうし、ボーナスも得られないのだ」。

 裁判官や弁護士はみな常人であるが、しかし、大法学習者は能力のある者だ。われわれ修練の道は師父が按配してくださったもので、常人に左右されないはずだ。われわれが正念を持ちさえずれば、常人は左右することができないのだ。

 それから、二人のシンガポール学習者に対する理不尽な判決は、他の空間にある古い勢力や黒幕のシンガポール学習者に対する「試練」であったかもしれない。そこで、われわれは個人としても整体としても、まじめにこのことを反省し、自分の心や整体としての調和などにおいて古い勢力に隙を与えてしまったところがあるかどうか、よく検討すべきであろうと思う。

 例えば、われわれは本当にシンガポールの衆生を救うことを心にかけているのか、それとも無意識のうちに自分を証明する心を混ぜてしまったのであろうか。あるいは闘争心があったかどうか。それから、学習者の間では隔たりがあり、それによって強い整体を成すことができなくなったのかどうか。これらの心がどの空間にあっても、いずれも大法学習者の整体としての力量の発揮を抑制することになるのかもしれない。われわれは整体としてうまくいき、正念が強ければ、邪悪が隙に乗じることができなくなるのだ。

 大法の威力の前で、悪いことを善いことに変えることができるが、それはわれわれ自身がいかに内に向けて自分の不足を探すかしだいだ。もし、整体として調和できれば、その力量は最大になれるに違いない。師父は次のように法を説かれたことがある。「われわれは寛容にすることができるからこそ、われわれは人を済度することができるのです。もし、大法弟子がみなそう思うことができれば、みなさん考えてください、この慈悲の力量によって、好くない素因が存在する場所はまだあるのでしょうか。」(『2004年アメリカ西部法会での説法』)

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/5/7/101282.html