日本明慧


二言三言:言い返さない

 
 文/米国の大法弟子

 【明慧ネット2005年5月25日】最近大陸の学習者では論争することが比較的多いと、師父は新経文の中でご指摘された。我々の周りにいる海外学習者の中にも、このようなことがある。絶えず弁解や論争をするという現象は、ある学習者の中ではとても著しい。他人が解釈するのを見ると自分も解釈をしたくなるが、毎回解釈した後で見えた結果は往々に逆であり、心はとても辛くなる。「大法の弟子として、解釈する時の心理状態はとても重要である」と認識した。もし、ただ問題を明らかに説明したければ、一言二言解釈しても問題にならないのであるが、このことに執着をしたら問題となる。その中に、必ず自分を裏付け、自分が間違えないと証明したい心があるからだ。論争はこのことによるものである。いつも、知らず知らずに自分を実証したいという心は、必ず修煉者が取り除くべき心である。

 師父が私たちに“真・善・忍”という大法を教えた時、一つの基本的な原則がある。それは「殴られても殴りかえすことなく、ののしられてもやりかえすことない」(《転法輪》)ということである。弁解や論争を止められない時、“言い返す”のではなかろうか?もちろん、矛盾が来る時、人の心を刺激しなければ無効なこととなる。相手を“罵る”人も当然、微妙に“ちょうど良いところ”まで罵り、相手の気持ちを良くさせるなどということはない。このような時、“どれが正しいのか、どれが間違いであるのか、相手の態度はどうか”と他人と言い争ったならば、無意味なことである。これは大法修煉者として、あるべき心理状態ではない。

 重要なことは“矛盾の中に自分を検討すること:なぜこんなことに自分が会ったのであろうか。いったい自分が取り除くべき心は何であろうか。さっさと取り除こう”ということである。多くの矛盾、特に修煉者の間に発生する矛盾が出るときは、二人とも修めるべきことがあり、相手にも正しくない、向上すべきところがあり、消すべき業力があるのである。もし、相手と言い争うならば、相手にとっても良くはなくなり、矛盾の中で自分の心を修められなかったならば、自分自身も“当然”修められていないのだろうか?もちろん出来ていないのである。そうであったならば、大法の弟子として合格なのであろうか?

 なぜ、“言い返さない”とすべきであろうかについて、話はとても基本的なことであるが、もしこれらのことが分かれば、多くの心性の関も容易に通れ、その時もそれほど辛く感じることなく、平然と対処できることであろう。毎回、心性の関を通った後、妙なる境地に達していると感じることであろう。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/5/25/102613p.html