日本明慧


真相を伝える過程における感想

 

 【明慧ネット2005年6月4日】ある親友は、おごり高ぶるタイプの人で、数年来法輪功が迫害されていることに関しても、他人事のように振る舞い、是非を論ずることなく、法輪功を止めるようにとしか言わない。私が監禁されている間に、彼女は共産党に入党し、外国企業へ転職をした。ついこの間も、彼女に会ったが、彼女の今までの態度から、脱党を勧めることには抵抗を感じた。

 案の定、彼女は私の話に冷淡な態度を示した。私が渡そうとする真相資料を断り、誰かが自分宛に送信した「九評」を既に読んだと言い、さらに、「気功だけやれば良いのに、何故政治的なことをやり出したのか」と言い出した。私は彼女の頭の中にある共産党文化の束縛を打ち破ろうとして、説明をした。彼女は、共産党に対して反感を持っていると言い、最後に「私はこんなことには関与しない」と言い残して去っていった。

 この友人と既に数時間も話した私は、気が滅入ってしまった。救いようのない人もいると思いながらも、「人を救うときには耐えることも必要だ。それこそ、大法弟子の慈悲の表われてある」と言う、師父の言葉を思い出した。私はわりとせっかちで、人に対して求める心がどこかにあり、結果を求め過ぎるところがある。実は、以前にも他の学習者と交流をした際に、「我々が出会う相手は、真相を伝える人に会うのが初めてかも知れず、故にすぐに真相を受け入れられないかも知れない。しかし、その人は次に真相を伝える大法の弟子とまた出会い、やがて3人目、4人目の大法の弟子に出会い、最終的には必ず真相を理解する」と言われたことがあった。

 私は気を取り直して、彼女に脱党を強要するのではなく、彼女をやっと見つけて、彼女のために会いに来た私の思いを感じてもらえばと考えた。我々の心が正しくあれば、発した言葉は決して無駄にはならないことであろう。大法の弟子の慈悲が、彼女の生命の奥深くまで入り込み、彼女を動かすことであろうと思い、気持ちを引き締めて、暫く正念を発してから彼女を待つことにした。そして、電話で一時間あまり話をした。電話を切りかけた彼女が、「もういいわ。私の本名で脱党をして」と意外な言葉を発した。

 その時、我々自身の修煉が如何に大切であるかということを、再び身に染みて感じた。本当に純正であれば、一言で相手を救うことができると思った。

 真相を伝える過程の中で、辛抱強くすることは、とても重要なことである。勤務先で、一切の真相を聞かず、真相資料も読まない同僚がいる。彼女に対して、4,5回真相を話したにも関わらず、「九評」ですら受け取らなかった。何度も断られたため熱意を失ってしまい、彼女のことをあきらめてしまった。

 『2005年ニューヨーク国際法会での説法』の中で、師父が、「こんなに多くの高次元の生命が危険を冒しても三界までに下りて来たのはなぜでしょうか?彼らは神なのです。彼らを救わなければなりません。彼らは法のために来たのではないでしょうか?別の角度から見れば、彼らはここまで来るだけの勇気があるということは、正法を実証するためであり、正法に希望を託したことではないでしょうか?ですから、彼らを置き去りにしてはならず、彼らを救い済度しなければなりません。彼らは一時的に愚かだったのかも知れません、また、長期に渡り共産党の文化の影響によって形成された、歪んだ観念により、真理を認識できず、真相を理解できないかも知れません。それにも関わらず、わたしたちは彼らを救うことに尽力しなければなりません。」とおっしゃった。

 私はここの文を読むたびに涙が溢れそうになる。自分が十分に慈悲心を持っていると思っていても、師父の無限の恩情と慈しみの前では、恥ずかしくていたたまれない。私は同僚に対して、穏やかな気持ちになり、まるで自分の子供を可愛がるように、もう一度小冊子を渡した。すると、彼女は小冊子を受け取ってくれた。そして、脱党をすると言ってくれた。

 しかし、最近の私は怠けてしまい、色欲や情けなどのものがどんどんと現れてきた。衆生を救い済度する意識が緩んだり、辛抱強くなくなったり、仕事の多忙に言い訳をしたり、誰それがもう救いようがないと思ったり、生活に対する憧れや、常人の仕事に過剰なウエイトを置いてしまい、真相を伝えることを怠った時こそ、正念が足りなくなった時であり、衆生を救い済度することを生活の中で最優先にしていなければ、大法の弟子として相応しくなく、大法の弟子に合わせる顔もない。これについては、度々認識しているのであるが。

 最後に、師父のお言葉をお借りし、共に励まし合いたい。「大法弟子の今日の修煉形式及び修煉状態は、以前の修煉形式とは異なります。皆さんは真に多くの衆生を広く救い済度しているのです。皆さんは真に大きな使命を背負っていますから、顕れた状態も過去の修煉とは完全に異なります。だからこそ、自分自身の修煉を忘れてはならず、自分自身の不十分なところに対して、言い逃れをしてはならないのです。ですから、皆さんが今後の歩みをしっかりと正しくすることを希望しています。」(2005年ニューヨーク国際法会での説法)

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2005/6/4/103339.html