日本明慧


弛まず正念を発し続けることが肝心

 文/西洋人学習者

 【明慧ネット2005年8月13日】師父が我々に託した三つのことは一つの総体であり、互いに働きを補っています。法をしっかり学ばなければ、正念を発するときに十分に心を静めることもできません。思想や考えが法に基づいていないとき、邪悪が直ちに隙に付け込んできます。我々が正念を発するときに邪魔されたり、雑念が入って来たりするときは、まさにそういうときです。法をしっかり学ばなければ、正念も弱くなります。頭の中に法がしっかり入っていれば、心を静めることが簡単にでき、こういうときに正念も強いのです。

 師父は「本当に静かになることができる時、その一念で十分天地を驚かし、できないことは一つもありません。すぐにあなたが覆っている範囲内の全てを定め、抑制してしまうかのようになります。あなたは一つの山のように、すぐにそれらを抑制することができます。考えがいつも落ち着いていなければ、それはいけません。落ち着いていなければこれをやり遂げることができません。」(大ニューヨーク地区法会での説法)とおっしゃいました。

 我々がなぜ真相を伝える時に、正念を保たなければならないかの理由がこれです。我々が『何かを求めるために真相を伝えている』と人々に思われているかも知れません。しかし、我々はそうは思っていません。我々は反対に、この人を救い済度したいという正念に導かれることで、何の執着も現れませんし、旧勢力は我々に対して付け込む隙もありません。

 私がいる煉功点の近くで、ついこの間、年に一度のフェスティバルが開催されました。私は煉功点の周辺で「法輪大法読者」の新聞を配布しました。通行者の中にフェスティバルの参加者が出入りしていました。彼らは手に沢山の飲み物とポスターを持ち、疲れ果てていらいらしている様子でした。私は人々に真相資料を配布し始めたとき、注意を引くために「こんにちは」と声を掛け、資料を渡していました。すると事は私の思う通りに運びました。私から見れば、微笑んでいる人または資料を受け取ってくれるであろうと思っていた人たちが本当に資料を受け取ってくれました。そして、手に物が一杯になっている人や、「我々と違う人達であろう」という人は資料を受け取りませんでした。

 約10分が経ち、私は真相資料を配布しながら、正念を発することに決めました。私は正念を発した最初の内は邪魔されていて心を静めることができませんでした。私は師父の「正念を発する時、目を閉じても閉じなくても、効果は同じです。目を開けたままでする際、常人社会の全てを見ても見えないようにならなければなりません。」(経文『正念』)という言葉を思い出していませんでした。

 しかし、私はこの言葉を思い出してから、思想を集中して「滅」を念じました。と同時に笑顔で人々に真相資料を配布しました。そうすると効果は全く違っていました。多くの人は手が物で塞がっていても、真相資料を受け取ってくれました。その後に、団体が通ったとき、前の人に資料を渡すと後についていた人も手を伸ばしてきて、資料を求めました。それまでに、彼らは何を考えていたにしても、その時は全てが私の正念の場の下に融合されました。私はその場に感動しました。私は正念を発する自信がさらに強くなり、これからも弛まずに正念を発し続けようと思います。

 以上は私個人の体験です。不適切なところがありましたら、ぜひご指摘ください。



(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2005/8/13/108323.html