日本明慧


些細なことでも大法のイメージに良くない影響を与える

文/大陸学習者

 【明慧ネット2005年9月3日】私は以前から皆さんにあることについて話したいと思っていましたが、人々に些細なことにとらわれていると思われたり、また、自分自身も時々過ちを犯したりするので、ついついこの話を忘れてしまっていました。しかし、私は最近、明慧及び正見ネットの文章を読み、師父が法を説かれたときにも似たような問題を提起されていたことを思い出し、自分の心配は執着であることに気づきました。大法のイメージを正しく守るために、私は自分が前から話したいと思っていたことを話すことにしました。

 私も含めて多くの人は、椅子に座っているときに足を組む習慣があります。また、両足を大きく開いて座ったり、貧乏揺すりをしたりする人がいます。これらの姿勢は、実は礼儀正しくありません。ましてやこの姿勢で人と話をするのは相手に対して非常に失礼です。中国の京劇の中でも、正統派の役は決してこのような形で表すようなことはしません。即ち、中国の伝統文化の中にはこのような姿勢や動きは存在しません。昔、武術を練る人は、「松の木のように聳え立ち、鐘のように不動に座り、弓のように柔軟に横たわり、風のように動く」という言い方があります。しかし、今の人々はむしろ自分の個性を発揮するような傾向にあり、古人が行って来た正しい行為を無視しています。たとえ舞台の上での演出でもますます醜くなってきています。

 師父は「ニューヨーク交流会への祝辞」(2002年2月1日)の中で、「現在あなたたちがやっている全ては皆最も神聖なことであり、あなたたちがやっている全ては衆生のためであり、あなたたちがやっていることの全ては他でもなく未来を創造しているのです」と説かれています。

 我々はこんなにも重大な責任を担っているからには、我々の行為、立ち居振る舞いは、未来の人々に真似されかねません。足を組むなどのことは、今は些細なことだと思われるかも知れませんが、人類の未来にかかわることでもあり、決して小さなことではありません。師父は、「聖者」(『精進要旨』)の中で、「大志を懐き而して小節に拘る」と書かれています。修煉者が持つべき人としての品性を我々に教えてくださいました。従って、修煉者は常人が些細な事と見ているちょっとした行動に対しても、自らを厳しく律するべきです。

 VCDの真相資料の中でも、司会者及び来賓の大多数が修煉者であるにもかかわらず、時にはこのような適切でない姿勢を、知らないうちにとっていることがあります。場合によっては、インタビューの内容は非常に良かったのですが、座っているときの姿勢が良くなかったために、全体的にマイナスの影響を与えてしまったこともありました。一部の常人はこれらの細かい部分についても、非常に気にします。我々が自覚していないこのような姿勢や行動が、期せずして彼らの真相を知る機会を妨害しかねません。従ってこのことは我々が本当に注意すべき問題点であります。  

 私自身も過去において、足を組む良くない習慣がありました。私は長身で、足もわりに長いので、足を組んでいれば、比較的楽で心地良いのです。良くない習慣とは知りながらも決して直そうとしませんでした。甚だしいときには、大法の書物を学ぶ際も、このような姿勢で勉強をしていました。私はその後、決心して大法の関連書物を学ぶとき、人と話をするときも必ずきちんと座るようにしました。しかし、どうしても一人になれば、自制は緩くなってしまいます。私はここで、周りに人がいてもいなくてもきちんと守り、徹底的に自分自身のこの良くない習慣を直すことにします。

 常人の中でも、言行一致と言う言葉があります。自らの心性を修め、「真・善・忍」に円溶した、正々堂々とした精神と正々堂々とした姿勢と行動があってこそ、初めて我々は正々堂々とした大法弟子であるということができます。

 以上は私の個人的な感想です。


(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2005/9/3/109671.html