日本明慧


「神」の面で《明慧》を読む

浄宇(大陸)

 【明慧ネット2005年9月24日】《明慧》は大法弟子全体が昇華する重要な環境であり、大法弟子が法の中で修煉して、法を正す過程に付いていく保証である。決して人間の疎通や理解ではない。《明慧》に関連する各方面は、大法弟子が法を実証する中で、絶えず人心を修によって取り除き、絶えず高まることの体現である。大法弟子として、正念をもって、《明慧》に投稿するすべての、神の道中を歩んでいる大法修煉者の認識を評価することは、実際に大法と自分に対して責任を負い、正念と正しい行いの表れである。

 人心で《明慧》を読む主要な表れは、一.いい加減に或いはざっと目を通して、大体の意味だけを見る。二.自分の興味を持つ部分だけを読む。自分の「高まり」にかまけて、実は自分の更なる向上を妨げる。三.同修の受けた迫害に対して人心で見る、あるいは全く関心を持たない。四.発正念に関する提案に対して見て見ぬふりをして、自分と関係がないようだ。などなど…

 皆ははっきり見分けるべきだが、各自の環境と道は異なっていても、執着心を取り除く過程と圓満に達する目的は同じである。衆生を救う目的も同じだ。神は異なる認識に対して言い争い、固執しないで、黙々と相互に圓容し、補充するだけである。

 明慧ネット上の文章は(師父の経文以外)、すべて修煉の中の人が書いたもので、完璧にならないのは当然のことである。しかし私達は「神」の心理状態で《明慧》を見るのは、大法弟子が法を実証する中で高まることの重要な前提となる。各文章の中で現れた不一致の要素も、同時に私達の修煉、研究し合う環境を構成している。修煉する心を少し緩めると、私達の人間としての表面の執着は、私達を常人の方へ戻らせて行く。

 修煉者の一念はとても重要で、人と神の差はここにある。例を挙げると、ある地区が大法弟子を迫害することを耳にしたら、聞いた人は直ちに正念を発して邪悪を解体すべきである。もし無駄に焦ってあるいは運良く自分が迫害されていないと思うならば、これは神の行為ではない。皆次のことを軽視している。皆さんの出会ったいかなることは全て偶然ではない。すべて皆さんと関係がある。皆さんがもっと良く行うべきで、すべての邪悪を解体できるのは、大法弟子の神の一面の本能であり、大法をしっかりと守る体現であり、衆生を救う使命の体現でもある。

 「神」の一面で《明慧》を読み、人心を取り除き、全体が昇華して、師の恩を無駄にしない。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/24/111000.html