日本明慧


大法弟子の責任と使命

 文/北米大法弟子

 【明慧ネット2005年9月30日】修煉が成熟するにつれて、理性的な一面が益々強くなり、自分自身の修煉の道が良く見えるようになりました。ここ数年の間、法を証明する中での自分自身を振り返ってみると、中には多くの常人の心が混ざっており、その中で最も際立ったのが二種類の情況でした。一つは個人の興味に基づいたものであり、自分が興味を持っていることに関しては、比較的にやりたがり、それなりのやる気もあります。その反面、自分が興味を持っていないことに関しては、やるにしてもちょっとした矛盾と挫折にぶつかったり、ちょっと大きな困難と妨害に遭うと、未解決のまま棚上げにして、すぐ方向を転換したりして、興味のある他のことに背けます。

 もう一つは、調子に乗ってその勢いで騒ぎ立てることです。実のところ、これらは常人の中でみんなが集まって気持ち良くわいわいする状態と同じです。例えば、一部のことは、最初は新鮮感を覚えて気持ち良く走り出します。しかし、しばらくすると、特に困難と妨害に遭うと、途中で諦めてしまいがちです。あるいは時間が長くなると、疲れを感じたり、甚だしきに至っては寂しさを感じて興味を失い、前に進むことができなくなったります。あるいは、とりあえずやるとか機械的な任務完成のためのものになってしまい、大法を証明するという正念が薄れてしまいます。

 実のところ、これらは常人の心と執着です。実践の中でわかるように、強い常人の心を持って物事を図ると、よく竜頭蛇尾になるのです。

 人類社会の中で、多くの常人は個人の興味や趣味に時間を使います。あるいは皆で集まりわいわいしながらその勢いに乗って、流行を追いかけます。大法弟子として、私たちが法を証明することは、実際個人の意志によるもので、強制的なものではありません。しかし、これらは常人が趣味愛好や流行を追いかけるといったものとは、完全に異なります。もちろん、大法弟子にとって、法を証明する中で払うすべての代価は、最終的に自分自身のためのものです。

 大法修煉者として、師父は私たちに法を認識して修煉する過程を与えました。しかし、私たちは、修煉の中で最善を尽くして早く常人の心を切り捨てなければなりません。修煉の中でよくつまずいたりしましたが、今になって自分自身の一部の修煉の道を振り返ると、師父の『精進要旨』の「堅定」にある、「興が為来たるは、心必ず堅きこと無く」の本当の意味をこの身を持って経験しました。

 大法弟子として言えば、私たちは自覚して法を証明しなければなりません。もし、興味がない、最新「流行」ではない、あるいは「人間らしさ」が足りないということであれば、それは原動力が乏しく、まさしく深刻な常人の心の現われではないでしょうか?法理に基づいて言うと、これらは本質的に自分を証明することであり、大法を証明することではありません。個人的に思っていますが、私たちが自分自身の置かれている環境と条件の中で、本当に責任を持って、大法の需要に従って、外部の環境に動ぜず、やるべき大法のことに最善を尽くせば、あるべき作用が起きるはずです。

 2004年秋のある日、私はニューヨーク・マンハッタンの町で真相説明をしていました。突然、頭の中に一つの念が現れ、大法弟子として担った重大な歴史的使命と責任を深く感じさせられました。私は、それは師父が私の当時の状態に合わせて私を悟らせてくれたのだと思いました。その一瞬の間、私は自分の思想境地にまた一つ巨大な変化が起きたと感じました。まさしくその通りで、師父のこの上ない慈悲と、歴史上いままでなかった機縁を前に、私たちは、まだ切り捨てられない常人の心があると言うのでしょうか?私たちは、宇宙正法の中で特殊な位置におり、本当に衆生と自分自身に責任を持たなければなりません。現在の法を証明する貴重な機縁を大切にしなければなりません。

 私たちは、衆生を救い済度する使命を持ってやって来ました。正法の情勢に根本的な変化が起きたとしても、現在世界中の多くの人がまだ真相を分かっていません。特に、多くの中国人はまだ騙されて毒害を受け続けています。彼らは皆、私達が救い済度すべき対象なのです。師父は最近「志が退かず」を発表され、私たちに気を緩めず、常人のことあるいは安易に過ごしたいという常人の執着により自分の意志を浸食され、自分の使命と責任を忘れてはいけないと、警告してくださいました。

 正法の最後の段階において、絶えず精進し、大事な最後の一歩が失敗に終わらないようにしましょう

 適切ではないところは、慈悲のご指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/30/111358.html