日本明慧


自我を放下し、法の中に溶け込む

 文/オーストラリア大法弟子

 【明慧ネット2005年10月3日】尊敬する師父、こんにちは。同修の皆様、お元気ですか。

 万事はスタートが難しいですね。最初、私はなかなか時間を作ってこの体験談を書くことができませんでした。雑然とした考えでペンを持って文章を書こうとしましたが、頭の中は真っ白で、私自身がよく行っていない部分の暴露を恐れているかのようでした。しかも、他の同修が私をどんな目で見るのかなど様々な心配が生じました。大法の仕事は言うまでもなく正法修煉であり、だからこそ、私は最善を尽くして心の扉を開いて皆さんと私の修煉の過程の中での体験を交流したいと思います。私自身が置かれている次元で私なりに悟ったものを書きたいと思いますが、正しくないところがございましたら、同修の慈悲のご指摘をお願いします。

 過去二年間、私は休むことなく世界各地を駆け回りました。クイーンズランドに帰った後、私は再び責任者をやる必要がなく、ただ進行中の活動に参加するだけで良いだろうと喜んでいました。もともと数ヶ月後にはワシントンに行く予定にしていました。しかし、師父の2005年「米国西部国際法会での説法」の中の回答の部分を読んで、私は自分の執着に気付きました。師父は「責任者が大紀元の仕事に参加するのはいいことですが、責任者は実はコーディネーターであり、もっと多くの能力ある人が参加してくるようにすることこそ、大事なのです。あなた一人はどのくらいの作用を果たすことができるのでしょうか?全体からみな作用することができれば、責任者が良く行ったことになります。責任者自身がしっかり行っていても、ただ一人の学習者が良く行っただけであり、それならば、普通の学習者になればいいのです。大事なのは責任者の責任です。この作用を働かなければなりません。」と、述べられました。私は自分自身に問いかけました。私は真剣にクイーンズランドの協調人としての仕事に責任を果たしたのでしょうか?オーストラリアでは、一つの事、一つの活動がうまく行かない時、いつもその原因究明の矢先が協調人に向けらました。利己的な心理状態から私は、これらの心性の試練の標的にはなりたくないと思い、弱い自分を守ろうとしました。しかし、今回は現地に残り、真剣に協調人の責任を果たしたいと決意しました。なぜなら、私の条件は他の学習者と比べるとずっと良いからです。大半の学習者はみな出勤していますが、私は丸一日を大法の仕事に充てることが出来る状況でした。

 正法のスピードと強さは共にアップされ、大法の仕事も次第に増えてきました。一部の仕事は、早急に行わなければならないのに、私たちは一つのことの進捗状況等を中心にして、全体的な意見交換と法理上の交流を行いませんでした。何人かの人がよく交流を行うだけでした。クイーンズランドの大法弟子はかなり分散しており、学習者たちが一回集まるのも容易なことではなく、時間の按配はいつも配慮を受けることができませんでした。大半の中国人学習者たちはネット上で交流ができる条件が備わっておらず、それに大半の西洋人学習者たちもまたメディアの仕事に忙しく、多くの場合交流が途絶え、甚だしきに至ってはごく普通の交流でさえできない状態でした。例えば、一つの提案が提出されたとしても、とても短い時間内で決定を出され、時には返事すら求められません。互いの話し合いや交流が欠けていて、それに協調が足りず、なんらかの活動を行うときも共通の認識を求めることができませんでした。時には、意見の相違がとても激しく、より多くの学習者の参加と支持を得ることができませんでした。結局、私たちは最大限に全体の力を発揮できない結果をもたらしました。これらのことに直面して私はいつも、忍耐力と善の心を失ってしまいました。ある日、同修の一人から私に電話がかかってきて、他の学習者に対して善の心がないと指摘されました。

 物事が順調に進む時には、善の心と忍の心を保つことができますが、圧力があったり、またそれがエスカレートしたりする場合は、我慢が限界に達し、そんな時に同修から違う意見が出されたりすると、私の善の心と忍の心はつい崩れてしまいがちでした。他の学習者の執着心は、はっきりと見えましたが、これらの問題が相次ぎ発生し、すでに長い時間が経ちました。実際のところ、私は自分の突き抜けることができない執着に邪魔されていました。実は、遭遇したこれらのことは、私の心性を向上させるための機会であって、他人の執着を見つけるためのものではありませんでした。まだ、どれだけの失敗を積み重ねればこれらの執着を取り除くことができるのでしょうか?なぜ、この難関はこれだけ長い時間が経ってもいまだに乗り越えることができないのでしょうか?私は本当に、自らの執着に邪魔されてばかりいました。唯一私を少し安心させたのは、数日経って、やっと自分の執着に気付き、過去とは違うようになってきたということです。今は、難関を乗り越えることができなかったら、すぐ問題の所在がどこにあるのかを見抜くことができます。しかし、悲しいことに私は多くの場合、真剣に内に向って探すことができませんでした。

 私はこの体験談を書き始めた時、急いでブリスベンのすべての仕事の項目を作成し、同時にメールに目を通しました。私は、クイーンズランドの正法活動について、一人の学習者が書いた文章を見ました。私はすぐに気分を悪くし、直ちに返事を出して、コンピューターの背後に隠れた観察者のような角度から、どうして表面的なことを勝手に書くのかと質問しました。実際、私はこのような内容を書く予定にしていました。これらの活動の企画や協調から実際の作業まで私が参加していて、だからこそ、私がだれよりもこれらについてもっと具体的に、詳細に書けると思っていたのです。私は、私の体験談が法会で人々を激励する作用を果たすのだとの期待に舞い上がっていました。気軽に総括的に書いた報告のような文章は、実際活動に参加した学習者には不公平であると、私は考えました。私は、文章を書いた学習者が前もって私に声をかけなかったことをとても不満に感じ、私の貢献が公認を得られなかったと悔しく思いました。甚だしきに至っては、私は苦痛を感じた余り、これ以上体験談など書き続ける気にならないとまで思い込みました。それから冷静になり、私は内に向って原因を探しました。私はなぜ、こんなに苦しいのでしょうか?体験談を書くのは、まるで自分自身に対して外科手術をするようなものだと、一人の同修が私に教えてくれたことを思い出しました。

 私は、これらの背後に隠れている利己的な心に気付きました。見返りを求める心、周りに公認を求める心、これらはすべて自分自身を証明したいという執着だったのです。実のところ、大法は圓容で、欠けるものは何一つとしてなく、誰かがいなくなっても困ったりはしないが、私には大法がなくてはなりません。私は、体験談の発表は受賞パーティーに出席するのと同じように、誰が大法の仕事を多くやったかを見るのであって、あの同修が私の名誉を奪い取ったと思い込んでいたのです。自分の名利を追求する執着心と顕示心に気付いた私は、恥ずかしくて自分を許すことができませんでした。これは、まさに向上を必要とするところではないでしょうか?

 しばらくして、私は文章の一部分を書き直しました。自分の修煉の過程で経験したことに重点を置いて書き、他の学習者がすでに書いたものを繰り返して書いたりしませんでした。本当に大事なのは、私たちが何かをやったということではなく、何かを成し遂げるに当たって、その過程の中で他の学習者とよく協調し合い、どのように調和の取れた全体を作り上げるかが肝心なことです。これをやり遂げるには、自分自身をその中に置いて、絶えず自我を放下し、法の中に溶け込まなければなりません。

 上記のように、これらの法理を悟り、私はとても楽になりました。心も穏やかになり、心の扉がパッと開きました。以前、私は他人の執着を見ると、落ち着きませんでした。自ら自分が造った苦痛の中で、他人の執着に執着し、それをもって自分を守ろうとしたいわゆる「正」というものを、いまやとても可笑しく感じています。私は心性の向上のたくさんの機会を自ら失ったことをとても悲しく感じています。私たちは必ず明確にしていなければなりません。私たちは、まだ修煉の途中であり、努力して常人の一面を修めなければなりません。この特殊な歴史時期に、師父は私たちに宇宙の法理を教え、私たちに法の知恵を与え、私たちが多くの衆生を救い済度するようにされました。私は必ず、最大の努力を尽くして同修たちと一緒に法を証明し、私たちの先史の望みを実現します。試練と苦しみの中で常に自分を良く修めます。

 私の理解では、心の中から相手を自分と同じ全体であると考え、そうしてはじめて全体の力が形成されるのです。師父は、何度も協調性の大切さを強調されました。もし、私たちが個人の修煉と個人の圓満を先に置くのであれば、果たして一つの全体が形成されるのでしょうか?

 私は「鋼鉄を溶す慈悲」になるまで修煉できなければならないと認識しています。まだ、これらの要求に達成できていませんが、これまで以上に更に精進し、圓容不壊の法理に同化していきます。

 師父に感謝します!同修の皆様に感謝します!

 (2005年オーストラリア法会発言原稿)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/3/111601.html