日本明慧


正念を貫き通せば、師父はいつも私たちのそばにおられる

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2005年10月26日】先日、明慧ネット上のある文章を読みました。文章の内容は、ある学習者が修煉を始めて長い間何の光景も見ることができずに、大法を信じる心をなくしてしまい、大法の修煉をあきらめてしまったと言うものです。読み終わった後、私はとても感慨を覚えました。この学習者は法を正す時期が終わろうとしているにもかかわらず、この千載一遇のチャンスと縁をつかむことができなかったのです。天目がとじたまま修煉をしている同修たちのことを考えて、私の修煉体験を書いてみることにしました。

 私は98年10月、大法に出会いました。大法が何なのか分かったときのあの喜びと感激は言葉では表せません。師父が『転法輪』の中の「歓喜心」でおっしゃったとおり、はるか古の縁をついにかなえることができて、深く感激しました。私は男で若い弟子です。修煉を始めたときは執着があまりにも多くて、顕示心理はとても深刻でした。修煉を始めてから、『転法輪』の中の「自分の心より魔が生じること」を読んで、私はうまく自分をコントロールできないのを恐れて、師父の写真の前でお香を一本たきました。私は師父に向かって「師父、私は天目は要りません。天目がとじたまま修煉したいです」と言いました。この願いを発したあと、私は今でも何も見たことはありません。しかし、一度だけ例外があります。それはある非常に苦しい時期のことで、私が『転法輪』を読んでいると、尊敬する師父が私を励ましてくださり、私に転法輪の字の一つ一つが金色に輝いている佛である様子を見せてくださいました。修煉を始めたころは法輪が回るのを感じ、体が急速に大きくなっていくのも感じましたが、今ではほとんど何も感じなくなりました。しかし、私は師父が『アメリカでの説法』で次のようにおっしゃったのを覚えています。「あなたが修煉しさえすれば、私はあなたのそばにいます。あなたが修煉しさえすれば、私はずっとあなたを守り続けます。私は常にあなたを見守っているのです」以下は私の修煉の中でのいくつかの体験です。

 ある晩、私がずっと法を学んでいると、11時になって、眠くて仕方なくなりました。まぶたがのりでくっついたようになって、私は少しだけ寝て、12時に絶対起きて正念を発しようと思いました。こうして私は寝てしまいました。心地よく寝ているときに、意識の中で誰かが突然思いっきり銅鑼(どら)をたたきました。私は一気に目が覚めて、時間を見ると、11時50分でした。ああ、これは師父が私を起こしてくださったのだと気づき、私はすぐに正念を発し始めました。

 あるとき出張で北京に行って、ある同修の家に行って交流しました。そこで、大法の修煉をやめてしまって久しい、ある女性に会いました。彼女は迫害が始まる前はずっと修煉をしていましたが、迫害が始まってからは精進しなくなりました。何年も大法の本を読んでおらず、ただ大法はすばらしいと知っているだけでした。それでも師父は彼女を見放しませんでした。彼女は故郷を離れて北京で仕事を見つけました。彼女が借りた部屋はこの同修の家だったのです。師父は彼女がこの同修とともに精進するように諭したのです。初日の夜12時、私は彼女ら2人と正念を発しました。次の日の朝6時に私がその同修と正念を発し始めたとき、彼女はまだ眠たくて起きませんでした。このとき、師父は彼女に私があの同修とともに正念を発していて、彼女も起きてするように言っている場景を見せました。しかし彼女はあまりにも眠くて、やっぱり起きようとはしませんでした。そこで師父は彼女にもう一つの場景を見せました。あの同修が彼女を連れてとても高い階段を上っていました。彼女らは階段を上りながら階段の上のごみを掃除していました。これを見ると彼女は起きました。そのとき私たちも正念を発し終えました。彼女は「正念を発し終わったのですか?」とたずねてきました。なんで分かったのか彼女に聞くと、彼女はさっき見た場景を私たちに教えてくれました。

 またあるとき、私の母が私の家を訪ねて何日か泊まっていました。私以前迫害を受けたことがあって、母も驚いて恐怖を覚えたことがありましたが、母はずっと自分の息子は良い人であり、大法は人の心を善に導くもので、良いものだと信じてきました。私は母に時間があれば「法輪大法はすばらしい」、「真善忍はすばらしい」と念じるようにすすめていました。母は夜寝る前に念じていました。その結果、母は次の日の朝起きる前に、道の衣装を着た、白いひげのとても長い人がベッドのそばにいるのが見えたそうです。その人は道が使う白くて長いはたきを持っていたそうです。とても慈悲深く、母は一度もその人に会ったことがなかったのですが、少しも恐怖を覚えなかったそうです。返ってとてもいい感じがしたそうです。少し時間が経つとその人はいなくなりました。母は私にその老道が誰なのか聞きました。私は、その人は大法の師父である李洪志先生であり、李先生、現世で人を救い済度されている佛であり、道の姿で現れるときもあると教えました。

 最近もある興味深い出来事がありました。私はずっと各種の機会を利用して他の人に大法の真相を伝えていました。ある朝会社でカナダからの国際電話を受けたのです。私はカナダの知人はいなかったので、とても驚きました。話を聞いてみると、それは7,8年前の学校の友達であると分かりました。7,8年間連絡が途絶えたままでした。彼女は私にある奇怪な話をしました。それによると、彼女はそのころ夜に私の夢を見たそうです。夢の中の私はとても奇怪で、大学の教授になっていたそうです。法律系の教授で、学生に法律について講義していました。私は師父が彼女の口を借りて私を励ましてくださっているのだと分かりました。私を励まして、彼女との縁を結んで、彼女にも真相を伝えることができるのです!

 私は、修煉でずっと何も見えなくて、最後に修煉を放棄してしまったその同修の話を聞いてとても心が痛みました。見えるか見えないかは、修煉の道での師父の秩序ある手配であり、見えるか見えないかは何の関係があると言うのでしょうか?修めるとは自分のこの心を修めるのであって、そのようなことを求めてどうしようと言うのでしょうか?円満すれば何でも見えるようになるのではありませんか?この同修は自分の根本的な執着心を探してみるべきではないのでしょうか?自分はいったいどうして、何のために修煉をしているのでしょうか?ただ天目が見えるようになるためだけでしょうか?私たちが見えても見えなくても、師父は本当に私たち修煉者一人ひとりのそばにいらっしゃって、見守ってくださっているのです!


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/26/113200.html