日本明慧


自己弁護を許す背後にあるもの

 【明慧ネット11月13日】法を正す三つの事をやっている中で、修煉者の間によくない現象が存在していると気がついた。ある修煉者は自分が間違っていることをしたときに、自分を弁護し、言い訳をした。煉功をせず正念を発してないのに、「忙しいから、後でやる」とか、あることをやったら、能力があってもっといい結果を出るのに、面倒くさい、あるいは難しいから止めたとか、ある人は夜中の12時の発正念のときに、「眠いから、横になっても発正念はできる・・・・」などのよくない現象が現れた。

 これは服に汚れがあると同じように、すぐに洗わないといけない。言い訳をして「私がやったのではない」と、自分の体によくないものがあると分かっていても洗わないのは、自分で自分を騙している。これはどんな心理なのだろうか?

 自分のために弁護するとほかの人に責任を負わせる。あるいは自分の責任を減少するため、やはり「私」を放棄できない。自分が自分を許すのは怠慢だ。自分に厳しく要求せずに、修煉を厳粛にせず、よくないと分かっているのに、自分を緩めている、悪いものを取り除かないと、よくない観念に邪魔されてしまう。精進していない証拠だ。

 こんな現象を深く考えると、自分にもたくさんこういう似た様な問題があり、以前には気がついていなかったが、今は全部暴露されている。師父はこれを利用して、修めて取り除くよう私に悟らせた。それでこの文章を作った。こういう現象がある学習者と共に精進し、チャンスを利用して修めるべきである。

 最後に師父の説法を復習しましょう:「実は皆さん考えてみてください。今までの修煉者は一生を費やしてはじめて歩み終えるこの道のりでも、一刻も怠りませんでした。大法に済度される生命に与えられる果位を成就させようとする大法弟子は、修煉の中で最も利便な修煉法門があるのに、法を証明しながら修煉するというこの最も偉大な栄光が瞬く間に去っていく短い修煉の間に、なぜもっと精進せずにいられるのでしょうか?」(『最後になればなるほど、精進すべき』)
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2005/11/13/114439.html