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国連特派専門員は中共の法輪功女性学習者に対する迫害に関心を持っている(写真)

 【明慧ネット2005年10月20日】第60回国連人権会議で、女性に対して暴力を振ることを除去するという2005/46号決議が通過、国連の「女性に対する暴力に関する問題」の特派専門員がいかなる確かな情報に対して有効に応対することを示した。また各国政府は、特派専門員が任務の進行を把握することに協力し、よりよく協力すると同時に、特派専門員が必要とする情報を提供し、提出された提案を実行し、かつ訪問および交流の要求に対して応対するように呼びかけた。

 

国連「女性に対する暴力に関する問題」の専門家 Yakin・Erturk氏(国連人権委員で女性の暴力・原因とその結果問題の特別報告者)

 報告は、国家を対象に一般的および個別な訴えに対してまとめたものであり、同時に2004年1月1日から12月31日までの間に発生した緊急請願時間および応対情況を該当政府に伝達する。「暴力で女性を侵害する問題」の特派専門員の調査報告結果も適宜該当報告に追記している。

 紙面の制限により、特派専門員は44ヵ国の政府、338件の事例の調査報告だけを提出した。特派専門員は昨年一年間で、49件の事例に対する応対および20件のフィードバックを受けた。

 今年の特殊性は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部と地方事務所が密接な合作を行い、共に諸々の送還に直面した女性問題、かつその国において暴力を受ける可能性が極めて高い事例を処理したことである。特派専門員は引き続きこのような合作方式によって連合保護行動の効果を強化できることを希望した。

 英文のダウンロードは下記のウェブサイトから。
 http://www.falunhr.org/reports/UN2005/Violence%20against%20Woman_chn.pdf

 日本語訳 国連特派専門員が中国政府に提出した、申し立ての手紙

 戚玉娜さん(42歳)は、河北省唐山市古冶区食品会社の優秀な製冷技師であり、元設備建設科の副課長だった。1999年7月に唐山市警官および現地党委員会(特派専門員は実名を把握している)は、彼女に法輪功の修煉を放棄するように要求した。同日、戚玉娜さんは夫の王錦興さんと共に大法を実証し、法輪功に対する弾圧を停止するように呼びかけるために北京へ行った。彼らは長距離バスの停留所で取り押さえられ、現地の派出所に戻された。彼らが解放されて家に戻って見ると、家はすでに家宅捜査されていて、大量の大法書籍や資料は全部略奪されていた。2000年2月19日、王錦興さんが再度、理不尽に留置場に拘禁された後、すぐに戚玉娜さんは他の学習者と共に再び北京へ請願に行った。翌日の早朝、彼らは天安門広場で煉功した時、警官の攻撃を受け、また天安門の近くの派出所へ連行された。数時間後戚玉娜さんは唐山へ送還された。戚玉娜さんは派出所の中庭にある鉄柱に数時間手錠をはめられた。その後、警官は彼女を尋問し始めた。公安局第一課の所長は力一杯に戚玉娜さんを蹴り、もう一人の所長は戚玉娜さんの顔を殴った。顔は殴られて腫れて来た。警官は戚玉娜さんを縛り、彼女の両腕を後ろで、手を上向きにして、力任せにきつく結んでかなり苦しい姿勢にさせた。聞くところによると、その翌日(2月21日)数名の警官は(特派専門員は実名を把握している)戚玉娜さんの自宅に行って、財物を搾り取ろうとしたが、戚玉娜さんの家はすでに家宅捜査されていた。彼らは更に徹底的に検査した。そして石炭の中に隠していた大法書籍と資料を見つけ、持って行った。またテレビとビデオも持ち去られた。聞くところによると、戚玉娜さんは24日朝から絶食を始めたという。当日午後、20人ぐらいの法輪功学習者が判決を言い渡され、留置場に送り届けられた。彼女は引き続き絶食して抗議した。そして強制的に安康病院へ送られた時、煉功しないように両手はベッドに縛られた。2000年8月18日、戚玉娜さんは無罪で釈放された。彼女は拘禁されていた間、不法に党籍を除名され、解雇された。2000年9月18日、戚玉娜さんは再び河北(開平)労働教養所へ連行された。10月に戚玉娜さんの夫は適当な罪名を付けられて二年間の労働教養の判決を言い渡された。

 2001年1月中旬、労動教養所の大法弟子に対する迫害はどんどんエスカレートしていた。戚女史は煉功するたびに処分を受けた。例えば、雪の中で立たせたり、あるいは半日間縛られたりした。2月21日、彼女は労働教養所の看守(特派専門員は実名を把握している)らに事務室に連れ去られ、残酷に迫害された。電撃棒で電撃されて、彼女は絶えずけいれんし、呼吸が停止した。その後、彼女はすぐに病院へ運ばれ緊急措置を受けた。電撃が彼女の神経系統に負わせた重傷により、健康を取り戻した後も彼女は夢の中でうわごとを言って、一日中血を吐き、吐血のちり紙は昼間に一袋、晩に一袋も溜まった。全身震えて歩くことが困難になり、心臓も重傷を受けた。4月24日晩、戚玉娜さんは法輪功を中傷するビデオを見なかったため迫害を受け、息ができなくなり、また病院へ送られ緊急措置を受けた。彼女の体は極めて衰弱し、また強大な精神的圧力を受けたため、精神情況も悪化し続けた。5月12日に重病のため、服役中の一時出所で、商業病院へ送られた。しかし610オフィスはまだ彼女を見逃さず、毎日三組で順番に監視していた。彼女の体は極度に衰弱し、精神的な圧力は強大であった。その時、彼女の夫・王錦興さんはまだ労動教養所の中におり、息子は実家に預けていた。数々の圧力の下で、彼女の精神は完全に崩壊された!そして精神病院へ送られて半年治療を受けた。しかし610オフィス(特派専門員は実名を把握している)は依然として彼女を自宅に帰さなかった。2002年1月15日、彼女はまた洗脳班に送られて半年迫害された。彼女は釈放された時、髪の毛は真っ白で、不整脈で呼吸が困難だった。

 張玉珍さん(48歳)は、河北省張家口市ゴム工場の従業員で、橋西区北新村メイ機工場の寮のビルに住んでいた。98年にリンパ癌の末期と診断された。聞くところによると、法輪功を修煉した後、彼女は心身共に健康になって、再び働くことができたと言う。99年7月20日以降、張玉珍さんは自分の病歴をもって北京に陳情しに行った。政府に法輪功を修煉すると非常に良い効果があると経伝えようとしたが、逮捕されて北京当地の派出所に送られ、その後、張家口市の警官に連れ去られて不法に拘禁され、また罰金を科された。釈放された後、また北新村派出所は何度も家と職場に行って修煉の邪魔をした。そして何度も不法に事務所や洗脳班に連行された。2004年2月17日晩、張玉珍さんは自宅で大境門派出所の警官に逮捕され、十三里留置場に監禁された。張玉珍さんは再び断食で不法拘禁に抗議した。その後、警官はまた張玉珍さんを沙嶺子片地法制学校に送って引き続き迫害した。2004年4月中旬、家族が見舞に行くと張玉珍さんは迫害されて放心状態になっていたが、警官は彼女を解放せず、治療もしてくれなかった。張玉珍さんは2004年5月4日に迫害によって死亡した。死後、大境門派出所はやっと家族に知らせた。

 蘇菊珍さん(40歳すぎ)は、遼寧省葫蘆島市すい中県前所町古城に住んでいた。1999年7月20日、蘇菊珍さんは法輪功のために請願しようと北京に向かったが、途中で阻まれた。悪徳な警官の指図の下で、ユダ(特派専門員は実名を把握している)は蘇菊珍さんの頭をズボンの股の中に押し込み、音を出せないようにタオルで口を塞いだ。その後、針で彼女の指先を刺し、三本の電撃棒で電撃した。また彼女を瀋陽のある非合法な病院へ送って薬物で虐待した。一回警官は彼女の洋服を全部脱がして、全身を電撃し、一晩中ずっと電撃した。その翌日、彼女の顔全体は電撃によって大きな水泡ができ、唇も同じだった。目と顔の部分は全部腫れて、青紫になり、悲惨で見ていられない程だった。彼女はまた殴打され、長時間しゃがまされ、立つことを許されなかった。ある日、警官は蘇菊珍さんを事務室に呼び、彼女をベッドの手すりに嵌めてから、電撃した。また蘇菊珍さんに食事を与えず、睡眠を与えず、トイレにも行かせず、二日経ってからやっと彼女を解放した。数人に支えられて事務室を出る時、彼女はすでに歩けなくなっていた。2002年の春節、蘇菊珍さんの家族は教養院から1、500元の医薬費を持って蘇菊珍さんを迎えに来るように知らせを受けた。後になって分ったが、いわゆる医薬費は蘇菊珍さんに強制的に飲ませた神経中枢を破壊する薬の費用であった。家族は、彼女の陰部にはまだ治ってない傷が残っていて、体に針で刺された痕があることも見つけた。蘇菊珍さん一家は、彼女が心身とも傷つけられたため、経済的にも精神的にも強大な傷害を受けた。しかし、彼女一家に対する警官の撹乱はいまだに終わってない……。

(法輪功人権原稿より)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/20/112825.html