日本明慧


自我を放下し、衆生を心に置く(二)

 文/中国東北大法弟子

 【明慧ネット2005年10月31日】

 * 衆生を救うことを根本として、基点を正し、自分の負うべき責任の中にしっかりとやっていく

 われわれはどの仕事を担当しても、目的が一つである:衆生を救い済度する。如何に各種の方式を利用して虚言に騙された世人に真相を伝えるか、どの角度から真相を伝えてより受け入れられやすいかのことはわれわれが考えなければならないことである。

 技術をマスターし、法理上での認識が絶えず高まるにつれ、われわれは当地の真相資料の編集に着手し始めた。2003年11月《当地の民衆に当地の邪悪を暴き出す》への師父の評注文章が発表されたあと、2004年の旧暦の正月前にわれわれは当地の看守所、労働教養所の邪悪な警察の真相資料を作った。その中には大量の迫害事実を列挙し、たとえば、**の死亡事件、**の虐殺事件などである。しかし中には大法の素晴らしさを表す内容のものが少なかった。当時、一人の同修はかつて善を持って「正月のような賀正の日に迫害ばかりの資料を作ると、衆生を救い済度する目的を本当に達成できるのでしょうか?」と指摘したが、われわれがこの問題においてあまりはっきりとした認識を持っておらず、自説に固執したため、真相資料を作り上げたらすぐに明慧ネットに送った。数日後、地元の真相資料が明慧ネットに発表された後、一つの迫害事実以外にほかの内容は全部変えられた。この事件を通して法を以って照らし、われわれの内面に向かって探したら、「邪悪を暴き出すことは最終目的でなく、この形を利用して真相を伝え、衆生を救い済度する目的を達成するのである」ことが分かった。当時、われわれは旧正月のことを考慮せず、相手の受け入れ能力をも考えていなかった。したがって、世人に真相を分かってもらうためにわれわれは相手の立場に立って資料内容の選択と作成を行うべきである。

 真相をよりうまく伝え、衆生を救い済度するためにわれわれは世人の受け入れ能力に基づきさまざまな真相資料や真相手紙を作った。たとえば、市長への嘆願書、市の人民代表大会への嘆願書、教育に携わる方への公開書簡、警察への勧善手紙、2004年7.20に地元民衆への公開書簡、町内会主任への勧善手紙、大法弟子を迫害した人々への公開書簡、清掃に携わる方への手紙など20種の真相資料を作った。このほか、迫害を暴きだす、同修を救援する、拷問手段を暴きだす看板をも作り、九評と大法の素晴らしさを表すシールをも作った。ほかの同修が作った真相シールには数字が小さく、使った色が多すぎ、真相を伝える効果を収めにくかった。その教訓を汲み取って、これからわれわれが真相資料を作るときにできるだけ世人の理解できる角度から資料を作らなければならない。

 私たちは当時のワンページ真相資料を作った。しかも季節によって異なる紙面を作り、また祝日の特徴に応じて異なる真相資料を作っている。たとえば、中秋の特別版、新年の特別版などである。

 われわれは目下の形勢と需要に応じて、衆生を救い済度することを中心に各種の《九評》や脱党のシールを作り、目的は世人の大法真相を知る妨害を追い払うことにある。そのほか、われわれは正義感のある人の名義で地元の民衆に脱党の呼びかけ手紙を発表し、それに配合して真相CDをも配った。CDを作った際にA同修と一緒にいた時間を大事にしなかったことを思い出し、もしそのときこの技術をマスターしたら、たくさんの資料作成仕事は私のところで遅らせられないだろう。当時、私はこの部分の仕事をやれる人に配ろうと考えていたが、このような人がなかなか見つからず、仕方がなく、私は説明書を照らしながら勉強を始めた。そのとき、私は正念を発して師父の加持を求めた。なぜなら私は人を救いたいからである。数日間で私は意外とこの技術をマスターした。実にわれわれは人を救う願望さえあれば、師父が何でもやってくれる。なぜなら「修は己にありて、功は師にあり」であるからであり、ところがわれわれは断固とした願望を持たなければならない。今日、私は、技術を勉強する機会があり、そのチャンスを大事にしていない同修に「私のように責任と困難を他人に残すことをしないでください、大法を証明する中に自分自身のポストを正しく対処すべき、そのポストは他でもなくわれわれが大法を証明する陣地であるかもしれない」と言いたい。

 真相を伝えやすくするために、われわれは真相のデータベースを作った。毎日明慧ネットに現れた地元の内容や電話番号を分類し、たとえば、労働教養所、監獄、公安局などである。こうすると、必要なデータを迅速に見つけることができ、多くの時間が節約することができた。

 実は、ある地区の資料サイトは他でもなく列車の先頭の部分のようなものである。邪悪の資料サイトへの破壊もはびこっている。なぜならわれわれが資料サイトを通して一体化を形成することを恐れているからである。たとえば、われわれは一つの情報を資料サイトを通じてより多くの同修に伝え、さらによく多くのシールや真相資料を作り、さらにより多くの同修は自分のいる環境の中にこのことに配合することなり、それは他でもなく、一体そのものである。だから私は個人的に地元の情報を、せめて一言でも遅らせてはならないと思っている。なぜなら、一言がたいしたことなく見えるが、この情報に沿って探していくと、より多くの価値のある情報がわれわれを待っているからである。詳細の情報を持ってこないと私は待つ、何でも同修を待って、何でも同修に頼るという昔の状態になってはならない。その状態は他でもなく、われわれが衆生を心においていない現れである。人を救うなら緊迫感があるべきである。

 また、より多くの同修を資料作成に参加させることは目下われわれがやらなければならないことである。多くの資料サイト作りはより多くの資源で衆生をすくい済度することに用いることができる。私たちは他の地区の学習者に資料作りを手伝ってあげなく、彼らに資料作り方法をマスターさせる。なぜなら、人にご飯をあげるようなことで、それを食べ終わったらお腹の空くときはまたやってくる。もしあの人に耕作技術を教えてあげたら、彼はこれから食べたいものを自ら耕作することができるからである。だから、この辺の交流が非常に大事である。最初に同修は理解することができず、だんだんわかるようになるだろう。彼は自ら真相資料を作り上げたら、その地区の衆生が救われることになる。あるとき、同修が自分で作った真相資料を見せてコメントを求めたが、私はできるだけその設計を改めず、足りないところだけを補い、このようにして、同修はだんだん成熟となった。これこそ円融配合ではないだろうか?

 (つづく)

 (第2回大陸大法弟子の修煉体験書面交流大会の交流文書)
                                         
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/31/112211.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/11/11/66752.html