日本明慧


自我を放下し、衆生を心に置く(四)

 文/中国東北大法弟子

 【明慧ネット2005年10月31日】

 *自我を放下して衆生を心に置く
 
 私は自分を正道に立ち返らせ、修煉者としての正念を再び探し出して、修煉の道を歩き修煉を堅持することが私にとって問題となっていた。なぜなら一人の修煉者は本質から自分を変えようとしないなら、辛い難関を乗り越える中で本当に「名、利、情」を放下しなければ、魔難から抜け出すことは非常に困難である。師父はどの弟子をも見捨てたくなく、あらゆる衆生に法を正す中に自分の位置を置くチャンスを与えていることをよく感じており、同時に同修からの信頼をも感じていたが、より正確に言えば、その信頼は師父や大法への断固とした信念から来たものである。師父の慈悲なる保護と同修の正念による加持と寛容な理解の下で、私は今日まで歩んできた。ところが、個人修煉基礎が薄く、自我に強烈に執着しているため、今日の大法を証明し、衆生を救い済度する中で 「自我を放下すること」は、私の直面しなければならない難関となっている。

 全体に参与してきたとき、修煉したばかりの学習者のように、法を正す修煉と個人修煉が結びついている。邪悪の気が狂ったかのような迫害に面して、如何に基点を正しくするか、如何に私心を放下し、断固として大法を証明するかは、私が最初に考えなければならない問題である。しかし、そのとき、私は自分の言行、話しぶりを正すことにまったく注意せず、相手の立場に立って物事を考えることは言うまでもないだろう。今までずっと技術の仕事に携わっており、長い間に比較的に封鎖された環境で大法の仕事をしていたため、あるべきでない執着を放任させ、自分の考えややり方をあまりにも強調している。たとえば、私の編集した真相資料は他人に改めてほしくなく、特に同修が編集のことをよく知らないからと思っているから、同修が提出した意見は私にとってなかなか受け入れられないのである。しかし、同修が私のこの問題を指摘したときに、私はいつも自分のために弁解し、世人がこの真相資料を見てどのように考えるかをまったく考慮しなかった。

 われわれが真相資料を作る目的は他でもなく、だまされた衆生に真相を知ってもらうためではないだろうか? 同修が善をもって法理上で私と交流してくれて、はじめて、自分がどれほど自分に執着しているかがわかるようになった。正直に言うと、私は衆生をまったく考えずに、あくまでも自我を証明したいのである。しかし、私は自分の考えを放棄し、同修のコメントに従って真相資料を作り上げたとき、資料の面目が一新したような感じがする。そのときから、私は真相資料を作るなら、できるだけ世人の角度から考えるようになり、しかも同修からの異なる意見をも受け入れられるようになった。このことを通じて、より多くの自我を放棄したとき、大法を証明する仕事をやる際に、大法に与えられた知恵が絶えず出てくると深く感じた。「神はあなたの方法が役立ったのを見て次元を上げるのではなく、あなたがこの問題に対する認識を高めたのを見て次元を上げるのです。これが即ち正法の理です」(『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』)。

 このようにして、私はよろよろと大法を証明する道を歩いており、矛盾の中で絶えず自分の内面を探している。ところがこれでは依然として大法が衆生を救い済度する要求に程遠いのである。特にその後私はだんだん他の同修と接触するようになり、私の取り除いていない人心と執着はその後の大法を証明し、同修と協力したときにより目立つように現れてきた。しかし、私はこれに関してまったく感じず、多分日ごろ私がめったに他人に関心を持たないせいかもしれず、ひたすら大法の仕事をし、積極的に自分を修めていないからかもしれない。逆に矛盾がくるとき、いつも他人の自分に対する不公平を思い出して、数年前のことさえよく覚えている。強烈な嫉妬心で私は同修との協調の中に誠意を持って矛盾に対処しないようになった。同修がこの問題を言い出すとき、私はいつも自分の大変さを思い出して自分が寛容に対処されたいと思っている。この問題において、私は法理上で高まっておらず、自分の執着に直面する勇気がないため、このような矛盾はしょっちゅう発生している。

 私とずっと一緒に大法の仕事をやっている同修との間に矛盾が生じた。彼もまた矛盾の中で完全に高まっておらず、ひたすらに矛盾から逃げようとしていた。私は自分の内面を探しながら正念で彼を励まし、しかも手元にある大法の仕事を遅らせてはいけないという莫大な圧力を受けており、大法を証明するためでなければ、私も残る勇気がないと思った。自分の引き受けた圧力は自分しか分からず、このように考えたからこそ、同修の提出した問題に真に善意を持って対処し、内面に探すことができなかった。逆に他人に理解や寛容を求めるようになった。私の周りの同修は皆莫大な圧力を感じており、自分のことで他人に余計な負担をかけないために、みんなは自ら黙黙と引き受けている。ところが私は引き受けられず、信頼できるおばさんを訪ね、彼女を母親(私の母親はすでに世を去った)にして自分の本音を打ち明けようとした。

 意外なことにおばさんは、「あなたは魔難の中で大法と師父を思い出さずに、逆にあなたのお母さんを思い出した。これは、師父が法に説いたある学習者が迫害されたときにお母さんと叫ぶことと同じではないでしょうか?」と私に厳粛に言った。当時、私は泣きたいほどつらい思いをしていた。そのときから私は、これからはいかなる人にも本音を打ち明けないと決意した。私は冷静になった後、よく考えてみたが、修煉者は矛盾の中で待つべきでない、内面に向って探すべきである。そのおばさんの話を再び思い出したときに、私は分かった、邪悪が私自身を迫害するときに、正念で対処すべきことは良く知っているが、同修間に矛盾が生じたときに、この点を往々にして忘れてしまうのである。その後、私はこのような困難に再び遭遇したときに、いつも師父の加持を求めるようになり、まもなく私の母親への1年半にも及ぶ情がだんだん薄くなってきて、最後に完全に取り除かれた。

 その後私は他人のことをより多く考えるようになった。私はだんだん意識してきた、私たちがいくら大法の仕事をやっても、いくら多くやっても、実際のところは多くやっていない。なぜならわれわれが大法のために何かをやっているわけでなく、大法の慈悲はわれわれに自分のポストを置きなおす機会を与えてくれたのである。この点を認識したら、大法のためにいくら多くやってもやるべきであることがわかった。

 今度の難関を乗り越えた後、私は法を学ぶ重要性をより一層認識した。「本当に法を身につけてはじめて、正しく道を歩むことができ、この生命は保証されます」(『2004年ニューヨーク国際法会での説法』)。かつて、自分は法を学ぶことを重視しているとずっと思っていたが、これらの矛盾や試練が出てきて、はじめて自分が法をしっかりと学んでおらず、自分の考えや行動を法に照らしておらず、自分を本質から変えようとしていないことがわかった。その後、同修と協力して大法の仕事をするときに、私は異なる意見を聞くようにと自分にいつも注意をしている。ある日、一人の同修は「ある協調者があなたと交流したい」と言ってくれたが、私は非常に怖がって、脈も速まった。自分が何の過ちを犯したかまったくわからないからである。私は心を静めて、今日同修が何を言ってくれても言い返さず、言い訳せず、しかも泣かないと決意した。同時に師父の加持を求めた。あの協調者はたくさん言ってくれたが、私は静かに聴いた。私は真剣に同修の話を聞き終わったとき、この交流が私の修煉に非常に役に立ったと感じた。なぜ私は昔このようにやれなかったのでしょうか?現在、私は一つの理を悟った、執着を取り除くときに経験した苦痛をなめる以外に、心性が高まった後に「柳暗花明又一村」の喜びをも体験することができる。

 自分の変化が毎日飛ぶように速く、絶えず法を学び、自分の心性も高まっていると感じ、しかし、このすべては皆常人と比べ、私の昔と比べたものであり、法の異なる次元にわれわれに対する要求と比べていない。だから自分と三年間ずっと大法の仕事を一緒にやってきた同修の間に生じた矛盾に面したとき、内面に探し、自分の心性を高めることはただの空論となった。その同修が厳しく私の問題を指摘したときに、私の自尊心が大きく傷付けられた。私は恐る恐る同修の話を聞き終わった。自分が最も信頼している同修に完膚なきまでに言われ、自分の自尊心が大きく傷つけられ、私の寛容への渇望は極点まで達していた。この強烈な渇望があったからこそ、私は同修の話を真剣に考えることができず、自分の強烈な自尊心の裏側に隠れている本当の執着を意識することができなかった。当時、表面上は強靭だが、内心にかつてなかった脆弱を感じた。自分がしっかりとやっておらず、師父の慈悲なる済度に背いたと感じた。自分のために弁解しようとしたが、内面に探さないこの挙動を自分でも可笑しく思っていた。しかし、自分が大法のために今までどれほど尽くしたかを思い出して、内面に探すことはまた脆弱となった。強烈な自尊心が私の本性の一面を抑制しており、そのとき、早くこの場を離れること以外に何も考えておらず、あくまで自分の執着を放下することができなかった。衆生を考えていなかったからである。日ごろ法を第一位に置くとよく言うが、本当の試練の前でなぜ成し遂げられないのでしょうか?「巨大な魔難があっても志退かず」ではないでしょうか?残酷な迫害は私の志を動かすことができなかったが、同修の交流の言葉で私が理性を失い、法を考慮せず、衆生を考慮しなくなった。これでよいでしょうか?

 その時、私は師父の『シンガポールでの法会における講法』での言葉「如何なる事にあたる時も自分自身の問題として考えることができるならば、その人はとても素晴らしい人で、円満成就まで辿る道にあなたを妨げる障害はありません。誰でも何かのことに出会った時、いつでも外へ向かって探します。『あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?』心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これはすべての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です」を思い出した。私は常人の理に陥ってはならず、自分の執着から抜け出すべきであり、この束縛から飛び出すべきであると思った瞬間、衆生の私に対する期待を強く感じた。なぜなら私は彼らの救われる唯一の希望であるからである。私は自分の私心、嫉妬、不寛容に対して逃げるべきでなく、これら執着に直面し、しかも努力してこれら執着を取り除くべきである。

 その後、私はなぜ同修がそのように私に対するのかがわかった。師父の言われたように、彼らのよくない一面を利用して自分のよくないものを見せている。私は昔同修と一緒に大法の仕事をしたときに相手の立場に立って相手の角度から物事を考えずに、知らないうちに相手を傷つけたりしていた。同修間で話すとき同様に自分の態度に注意すべきである。たとえ本当に他人のために考えても、態度に注意すべきである。なぜなら、その考えは自分の観念を帯びて考え出したものかもしれず、また純正なものではない。そうでなければ、あなたの話を聞くと、相手が感動して涙を流すのである。なぜならこれは法の威力であり、法の慈悲の現れであるからである。私は今後大法を証明するときに自分の言行により注意するようになり、仕事をすることは修煉を取って代わることができず、人心を取り除く試練の前でいい加減であってはならず、自分の内面に探さなくてはならず、さもなければ修煉しないことになる。仕事をやる中で他人への考慮と現れた寛容こそわれわれが成し遂げるべきことではないだろうか? それは決してスローガンではなく、法がすべてを変えることができるからである。

 このとき、私は率直に私の欠点を言い出してくれた同修に、言い表せない感激を覚え、彼らの無私を覚えた。なぜなら彼らはまず自我を放下することができ、さもなければ私の強烈な執着と自尊心は傷つけられることになるからである。現在同修の慈悲の心と責任を負う心を覚え、人間の情がなくなり、同修は慈悲と善を以って私の硬化した心を溶かした。これを思うと、私に付きまとい、なかなか切り離せなかった執着があっという間に解体してしまい、私の神の一面が復活して、大きくなっている。私は、大法の慈悲の力量に自我への執着の枠から解脱されたとき、法の素晴らしさと法の慈悲をより多くの人々に伝える意味が一層わかるようになった。「情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」(『転法輪』)

 師父の慈悲なる保護、同修の信頼、寛容と無私の助けは再び私に大法の威力を覚えさせている。師父の衆生への無量の慈悲を完全に理解することはできないが、私はより多くの衆生を思い始めるようになった…。このとき、私は衆生を心に置いていると感じ、衆生の未来はわれわれが考えるべきそのものである。ここまで書くと、私はなんとなく師父の説かれた「人を救うことだけが大法弟子がやるべきことであり」の言葉の真の意味が分かるようになった。

 最後に、大法を証明する過程を歩いている同修が自我をより多く放下し、より多くの縁のある人々を救い済度するように切に望んでいる。

 (第2回大陸大法弟子の修煉体験書面交流大会の交流文書)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/31/112212.html)                                                     
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/11/13/66599.html