日本明慧


学習者の修煉体験の重要性について

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2005年11月9日】以前、私は学習者の修煉体験をあまり読んでいませんでした。自分の法に対する理解はとてもよいと思っていたので、修煉体験はあまり見たくなく、より多くの時間を師父の経文を学ぶことに費やそうと思っていました。しかし今では師父の説法をしっかりと学ぶと同時に、時間を作って修煉体験をたくさん読むようにしています。ほかの学習者の修煉体験を読むことも、法をしっかり学ぶための一部であり、補充でもあると私は悟りました。現在、学習者はますます成熟し、修煉体験も深い内容のものとなっており、私たちをさらに啓発してくれるものになっています。師父が経文「成熟」でおっしゃったとおりだと思います。「文章の中の多くは、理性的な分析や足りないところを探すものであり、法を実証するため、損失を軽減するため、修煉者たちがみな正念を持って正しく行うことができるようにするため、迫害されている修煉者のために方法を考え、もっと多くの世人を救い済度するための交流であり、見栄えや雰囲気を膨らませる言葉はありません。このような素朴、正確、清らかな、人間の情を持たない文章は常人には書けるものではありません。なぜならば、修煉者の内心が清浄になっているからです。」「これが私の大陸大法弟子のネットでの交流文章に対する感想の一部です。総じて言えば、多くの大法弟子が成熟し、修煉の形式が成熟し、修煉者の修煉に対する認識が成熟し、人心がますます少なくなって理性的な行為の表れが成熟したと感じました。すべての大法弟子がこのようにできるならば、邪悪は根絶され、神佛が大いに顕れることになります。」

 私たちはそれぞれ異なった宇宙の体系から来ており、異なった宇宙体系の特徴をもっているため、それぞれ違った修煉の道を歩むことになり、師父の説法に対する法理の悟りも必然的に異なってきます。学習者たちの違った理解や考えが私たちの修煉を補充し、より豊富なものにしてくれていると私は思います。私たち弟子は一人ひとり少しずつ違った角度から物事を考えていますが、総体的にその一つ一つの角度が融合すると、非常に完璧で円容かつ有機的です。他の学習者が自分とは違った角度から書いた文章を読むことにより、私たちは個人の認識の限界を超え、自分の思想を突破し、一つの角度ではなく、全体的に全方位から物事を認識できるようになります。これは私たちが法をしっかり学び、さらにうまく法理を悟ることにおいて非常に役に立ちます。

 師父の角度からすると、師父の説法は概括的であり、はっきりと話すことはできず、何でも私たちに分かるように諭すわけにはいかず、具体的なことは私たちが自分で修煉していくものだと私は考えています。修煉の中で、私たちが接することのできる環境、人、こと、物は限られていて、何でも接することができるわけではありません。それに、多くのことは師父もはっきりと教えてはくれません。さもなければ、私たちが修煉する意味がなくなってしまうでしょう。したがって、私たちが自分だけの力で完全に正しい修煉の道を歩み、法の理解を間違わないことは難しいことです。しかし、師父は私たちに対して非常に慈悲深く、学習者の間で交流と促進できる正しい環境を作ってくださり、具体的な問題においては、学習者との交流によって私たちの修煉の不足を補えるようにしてくださいます。さらに、他の学習者の体験によって私たちの修煉を諭してくれます。それゆえ、他の学習者の修煉体験を読むことは、私たちが法をしっかりと学ぶために非常に有益で、交流によって生まれた啓発も私たちの得るものであり、法を学ぶことの補充となります。同時に、修煉者一人ひとりの法の実証体験交流は非常に貴い経験で、私たちが三つのことをしっかりと行い、法を実証する中での遠回りを少なくしてくれます。

 私は以前、時間への執着が強く、予言に興味を持っていました。しかし今では、天象の変化は学習者の交流の中に現れていると気づきました。師父が法を伝えた初期のころの学習者の修煉体験と、今のそれとの差を私たちは見ることができます。違った時期の交流はみなそれぞれ違った背景を持っていて、違った天象を帯びています。また、学習者たちの交流によって私たちは促進され、どのように環境を突破、創造し、どのように次の段階に向かっていくかが分かるようになります。このような変化はちょうど、師父の導きのもとで、弟子である私たちが天象の変化を動かしているということなのです。それに、私たちの総体としての連帯性も学習者の交流の中で現れ、作用を起こしています。学習者たちの交流がなかったら、私たちは明慧ネットの文章で、小さいことは各修煉者、大きいことは一つの地区、更には国家、世界各地の学習者の総体的な状況を知ることはできないでしょう。そうなると、私たちは自己の範囲内で法の実証の向かっている全体的な方向が分からず、天象にあわせて正しい道を歩むことは困難になるでしょう。学習者の交流はちょうど、まとまった全体でありながら世界中に分散する各学習者を、一つのまとまった全体としてつなぎ、世界各地に散らばっている学習者が連絡しやすいようにし、お互いに学び合えるようにする働きをしています。

 より多くの学習者が、それぞれの修煉体験を書くともっとよいのではないしょうか。これは大法弟子が法を実証する重要な部分でもあります。よい文章によって他の学習者がさらに精進し、または迷ってしまった大法弟子が正しい道に戻ってくることができれば、その文章もまた功徳が非常に大きいものとなるでしょう。同時に、修煉体験を書くことは自己の修煉の助けになるということを私は自ら体験しました。私たちの修煉体験は修煉の文章なので、法の内容に関わり、文章を書く過程で神の一面が作用を起こします。心をこめて書く過程で、知恵が次々に沸き起こってくるのを感じ、時々、一気に書き上げることもありました。書く過程で、今まで法の認識できなかったところがいきなり分かることもありました。文章を書く過程も法に対して再認識し、まとめる過程なので、修煉体験を書くことは修煉に非常に有益なのです。

 以上は個人の修煉体験です。時間が限られていたので、言いたかったことがはっきりと表現できなかったかもしれませんが、不足なところがありましたらどうぞご指摘ください。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/9/114024.html