日本明慧


距離

 【明慧ネット2005年11月13日】今年10月に会社の都合で外地への勤務となり、そこで協同作業会社にいた3人の法輪功学習者に深い印象を与えられ一つのことが私を目覚めさせました。それによって、自分は真善忍の要求との距離に気づき基準を満たしていなかったこと、ほかの修煉者との次元の差を感じました。

 あの日の夜、協同作業会社の車の番をする楊さんという人と同じ宿舎に泊まりました。お酒を飲んでぶらぶらしていてタバコを口にしていた彼が自分の方に向かってきました。これをだらしなく感じて気持ちが悪くなりながら、「この部屋では禁煙ですよ」と注意をしました。彼は「ある法輪功の修煉者は度量が大きく寛容な態度でいる、私のようにきたなくてどろどろしていない。またある修煉者が車を運転している時は、自分を容赦してもらうところがなく、まるで大仏のようだった。」と返してきました。この指摘で同じ修煉者の自分は恥ずかしくなり隠れたくなりました。同修と法の勉強と修煉を比べると同修達は、通常、常人と良く付き合い大法を証明する役割を果たしている。私はどうなのだろう。正しくこれこそが次元の距離である。

 法を得て8年間の中でつまづいたり困難にぶつかったりしながら今日まで歩んできた。しかし、私は、はたして真、善、忍に同化したのだろうか?私は修煉者といえるのか?正法時期の大法弟子の基準に達することができたのか、などと自問したら、実は程遠く感じました。家庭や職場環境や社会などにおいて私は真善忍にどれほど同化しているのか、トラブルにあったらすぐ興奮してしまい法理を遠ざかっている。師父曰く「一人の修煉者としてこの特性に同化すれば、あなたは得道した人となります。このように簡単な理なのです。」《転法輪》。

 千百年にわたり骨にまでしみるほど形成された観念と変異した思想・・・・人の根本的な執着が正念と本性をかくしました。これらの魔性を徹底的に捨てなければなりません。私達があれらを見抜いたとき生命のミクロからマクロまで何一つとして漏らすことなく何一つとして残すことなく払い出さなければなりません。生命の存在意義とは真善忍に同化するもので返本帰真なのです。さらに真善忍を証明して、つまり衆生に希望を与え真善忍という新しい宇宙大法の生命になるようにするのです。

 幾年もの間で今まで何回も大法とすれ違いました。毎回の一言一動と一意一念が真善忍の異なる次元の標準要求を満さなかった時が、大法とすれ違った時なのです。すなわち、これらの現れとしては法の勉強をないがしろにしたり正念を発したりする時雑念に走ったり、真相を伝える場合でも心がこもっておらず言葉が激しくなったりした場合などはこれに当たります。これらによって時間的に無駄となるだけではなく、衆生を救い済度するチャンスをも失ってしまいました。これは大法と衆生に対して何を意味していますか?

 自らの根本的な執着を徹底的に認識すべきであり同時に確固としてあれらを徹底して取り除かなければならない時です。さもなければ、どんどん進んでいく正法の進展に追いつくことができません。・・・・・・師父曰く:「修煉には道があり心を道とみなし、大法は無辺であり苦を舟と成す」《洪吟》

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(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/13/114436.html