日本明慧


「独裁」を叫んだ後、私は不明な薬物を注射された

 文/大法弟子 浄蓮

 【明慧ネット2005年11月28日】私は省高校の長距離走の優勝者で、もともと健康だった。2003年7月20日、現地の公安局は私を留置場に拘禁し、省刑務所病院へ運び、不明の薬物を注射された。その場で私の下半身は出血し、人事不省に陥った。薬物の毒素で私の足の底は出血し、うみが出る状態だった。一年かかってやっと癒合することができた。

 2003年7月20日夜、公安は不法に家財を没収し、私を留置場へ連行し、その後、刑務所病院へ運んだ。私を「大」の字になるように手錠で両手を鉄製ベッドの両側にはめ、両足もベッドにはめた。市政法委書記が自ら指示し、大きな声で私に対して「プロレタリア独裁を実行する!」と叫んだ(このスローガンは文化大革命後、数十年も経つのに、依然として重視されている)。その後、私は不明な薬物を注射された。注射しているとき、私の下半身から液体が流れ、一人の女性警察が「血が出た!」と叫んだ。その後、私は人事不省に陥った。

 私が再び目を覚ましたとき、全身に力がまったく入らず、目を開く力もなかった。ただ周りの騒がしい音だけを聞きとることができた。一人の知らない声が聞こえ、中年の女性のようだった。「やっと目が覚めた。」と言った。それから私は全身に力が入らず、血便、血尿、吐血をし、四肢は麻痺して腫れ、皮膚が黒紫色で、酸素吸入に頼るしかなかった。両手は依然、24時間中ベッドの両側にはめられた。盛夏の中、6平方もないところで、鉄門、鉄窓で閉じ込められ、扇風機もなく、外では二人の囚人に監視させ、このようにして毎日48元の監視費を払っていた。40度の高温の中、全身に汗疹ができ、ベッドの布団なども臭くて汚く、虫がその上を這いまわっていた。体の至る所は虫に噛まれて痒いが、手錠をはめているため両手でかくことはできなかった。

 後に監視する囚人も、私を見ていることができないと(私は彼らに真相を伝えたことがある)こっそりと私に言った。その日、私はまた不明な薬物を注射され、下半身に血のかたまりが出てきて、シーツとパンツが赤くなった。その後、血圧は30まで下がり、心臓も危険な状態に陥り、意識不明となった。刑務所病院で緊急措置をとり、私はずっと人事不省に陥っていた。そして再び不明な薬物を注射され、非常に危険な状態になり、まさに死ぬ寸前だった。しかし、後でまだ緊急措置が行われ救われた。

 私は48日間不法に拘禁され、身体は虚脱して力がなく、また数種の病気が発見されたので、(中の一種は伝染病だった)留置場は受け入れなく、5000元ゆすられ、重病のための服役中の一時出所で、家に帰ることができた。48日間で体重は何キロも減った。ずっとはめられていた腕は半年も持ち上げられなかった。今でも四肢が麻痺したりする。

 半年後(2004年)、不法人員は私を不法に労働教養三年の判決にしたが、私は数種の病気を患っており、その中で伝染病も患っていたため、刑務所外の服役となった。

 迫害が始まってから、2000年12月、私は天安門へ行き、自分の心の声、「法輪大法はすばらしい!」「師父の名誉を回復せよ!」と叫び、「法輪大法はすばらしい!」という横断幕を掲げた。すぐに、私は現地の留置場に二年ほど拘禁され、残酷な迫害を受けた。重労働で私は全身が病気になり、体重は10数キロも減少した。2003年初め、やっと重病のための服役中の一時出所の名義で、釈放された。この期間中に、私は邪悪に妥協せず、ずっと真善忍の信念を持ち続けた。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/28/115385.html