日本明慧


修煉における根本的な執着心について

 【明慧ネット2005年11月25日】先日、第197と198期《明慧週刊》に載っていた根本的な執着心についての感想文を読んだ。その後、一体自分の執着心はどこにあるだろうかと 改めて考えてみた。以前も考えたことがあるのだが、しかし自分が修煉し始めたのは、いわゆる「なぜか」という思いがなく、ただ姉から聞いて法輪功が良いと知り、自然と修煉をし始めた。そのため、自分の根本的な執着心がどこにあるのかずっと分からなかった。

 昨日ある出来事があり、それがきっかけとなり、またこのことを思い出した。昨日ある同修(あまり精進せず、名誉や利益、地位などに未だに執着している)が私の家へ師父の新経文を取りに来た。玄関へ入ってきたとたん、彼女はまるで何か用事があるかのようにお化粧をしていた。彼女は平日、仕事が忙しく、大法弟子がやるべき3つの事があまりできていない。この日は日曜日で、彼女は本来ならばよく休みの時間を利用し、法の勉強、煉功すべきであるが、彼女はまたほかの用事で時間がなくなってしまった。話も十分することなく急いで帰った。彼女が帰った後、自分はとても複雑な気持ちであり、自分でもよく分からない心境であった。この状態は良くないと思いながら、自分自身を探り始めた。一体どういう気持ちなのか。彼女に時間を大切にして、もっと精進してほしいという気持ちだろうか。確かこの気持ちがある。しかし、単純にこれだけではない。もし単純にこの気持ちだけなら、自分の心から表れたのは、同修がもっと精進してほしいという善良な心である。しかし、この気持ちでないことにはっきり気がついた。一体心の奥に何が隠されているのだろうか。羨ましいということだろうか? そう考えてみたら、違っていた。大法を得てから、これらのことを常人のように執着してない。嫉妬心だろうか? 考えてみたら、また違った。一体何だろう? 結局分からなかったので、続けて探すのを止め、心を静め、法を勉強し始めた。

 今朝、座禅をしていたとき、最初の加持の動作に入ると、すぐに入定した(普段入定したことはあまりない)。

 そのとき、頭はとてもしっかりしており、心も清浄だった。突然、私は自分の根本的な執着が分かった。それは常人の生活の中で、大法を自分の心のバランスをとるために、その一つの大きな手段として使っているのだ! 気づいた瞬間、私はびっくりした。以前から、私は神聖な大法を常人が擁するものと同じように考えていた。ただ、大法が私の心の中で非常に重要なものとして存在しているだけであった。自分に深く隠された不潔な心を見極めた後、涙が溢れていた。その時師父にも、大法にも合わせる顔がないと思った。この執着心が普段現れたこととして、他人が何か利益を得たことを聞いたとき、「何の意味もない、私は大法を得たから、このことを執着しない」とすぐ考えるようになった。そのときは自分の修煉がよくできおりて、何もかも気にしないと思い込んでいた。今見直してみたらただ大法を手段として心のバランスを取り、常人同様に人と争わないだけのことであって、法理上において認識して向上してきたものではなかったことに気づいた。

 自分の根本的な執着を見極めた後、頭が非常にはっきりするようになった。昨日、同修が帰った後自分の複雑な心境もはっきりと分かった。同修に精進してほしいという気持ち以外にも、まだ根本的な執着心、嫉妬心もあった。なぜ嫉妬心がどうしても徹底的になくすことができないのかが分かった。多くの執着心が、根本的な執着心に隠されていたので、発見できなかったのだ。あるいは、すぐにはなくす事ができない。今後の正しい修煉状態としては、何を聞いても心が動じないことである。なぜなら我々は、世の中の損得を求めないからだ。心が動じると、まだ捨てていない執着心があるはずで、すぐに内を向かって探し、執着心をなくすため、修煉すべきである。

 私は師父に感謝する。師父の慈悲な指摘によって、私は根本的な執着を見つけることができた。我々は着実に精進することしかできない。「三つのこと」をしっかり成し遂げて、はじめて師父の期待にこたえることができる

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/11/25/115190.html