日本明慧


衆生を救い済度する中で自分の役をうまく演じる

 文/大法弟子

 【明慧ネット2005年12月11日】長い間、修煉の中で自分の状態が時には良かったり、時には悪かったりした。師父は私達に「最後になればなるほど精進すべき」と要求されたが、自分には衆生を済度する責任感、緊迫感がなかった。数日前に私は、比類のない光り輝く巨大な舞台を夢に見た。幕が開き、無数の役者がゆっくりと登場してきて、両側へ別れて舞台いっぱいに広がり、真ん中の最もまばゆくて明るく美しい位置が残った。この時、空中からある声が聞こえた。それは私の名前を呼んでいる声だった。つまり衆生がその心の中で最も栄光に輝く偉大な聖人を選び出して、その特別な位置に置くことを意味していた。私は惑いながらも、断ることができなかった。そこで私は両手を高く上げ、回りながら(他の空間の私はこの上なくきれいで、光り輝いていた)中心まで行った。大芝居は演じ続けられ、意外にも私の労動教養所での場面の一部分が現れた。その後、様々の道化者(大法を破壊するものもいた)が舞台で短い作品を演じた。私はいつの間にか観衆になっており、道化者らに引きつけられ喝采までしていた……。

 目が覚めた後、私はたくさんのことを考えた。師父は「誰が芝居の主役だろうか、ただ衆生のために上演されてきた」。(『塵埃に下る』)また、「傑出した人物は今いずこにいるのか、大法の伝播に続いてやってきた。千百年の悠々たる歳月を経て、縁を結び正果を得た衆生の蓮が開いた」(『縁を結んだ蓮が開いた』)と言われた。 

 ここ数年の正法の過程を振りかえってみれば、私は本当に、左にひと転び、右にひとつとんぼ返りしながら、いつも被迫害者を演じた。何度も不法に捕まえられ、拘留され、労働教養された。何でこうなるのか?私は本当によく考えなければならない。99年7月20日以後、私は何度も北京へ上京したが、二度は人心すなわち、自分の威徳を築き上げるため、円満するために行ったのである。その結果不法に逮捕され、労働教養され、労働教養所で「すでに円満したから、これ以上修煉する必要がない」との「五書」を書き、大法に巨大な損失をもたらした。それが分かった後、個人の補いをするために、すべて失うことを気にせず、度を越してまで個人修煉の基点から三つのことをやった。そのため結局、仕事、家庭を失い、後の修煉に多大な困難をもたらした。それより深刻なのは衆生を済度することに損失をもたらしたのである。その当時師父の『円満に向け』を読んで自分の根本の執着は認識したものの、ずっと厳粛に徹底的に取り除くことができなかった。だから私の根本の執着は、たとえ大法が自分を常人の中のすべての苦難から解脱させてくれることができ、自分にすばらしい未来を与えてくれても、まだ残されたままだった。修煉の中で、世間のすべては放下できる。(実は物質的ものは放下できたものの、心はまったく放下できていない)しかし、高次元へ憧れる人としての心はずっと残されたままである。この目標のため、世の中の多くのものを失い、大法を実証することはできなかったばかりか、多くの人に大法のことが誤解され、真相を知ってもらうことに障害をもたらした。 

 まさにこれらの根本の執着が、自分のする事を不純にさせ、自分を実証するため、自分に威徳を築き上げるため、自分を高めるためだったので、旧勢力に利用され余計に多くの試練をもたらした。厳しく迫害されたため、恐怖心と人心は自分を反迫害、迫害停止に執着させ、ずっと旧勢力の罠の中から抜け出すことができなかった。学法、発正念、真相を伝える三つの事はおざなりにできなくて、一つ一つの教訓のなかで絶えず教訓を総括はしたが、すべてが迫害されないためであった。思想の中では常に圧力、煩悶を感じ、やることでのミスを恐れた。やったことが間違った時はしょんぼり落ち込み、よくやった時は歓喜、顕示し、自我に執着する。これらの人心は自分に世の中の情勢と時間に対して執着させ、いつまでも自分を正法の全体的高さから問題を考えられないようにさせ、いつも表面のことに動かされた。時間に対する執着として、もし師父が残された時間が少ないといわれれば、焦って、何もしたがらず、一心にただ法を実証する事だけして、そのことだけに追われ、心静かに学法もできず、集団学法のときはまるで進度を急ぐよう、読みが遅い同修をひたすら催促し、学法が終わった後は決まりきったのように山積みの仕事をする。結果的に大きな間違いを引き起こし、巨大な損失を被った。 

 もし正法時間が10年あるとすれば、自分は間違いなくこのように目が回るほどこれらの事をしないだろう。もしかしたら常人の楽な暮らしに執着するかもしれない。師父は『法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない』の中でこう言われた。「正念が強く、良く行った大法弟子と比べて、あなたの大法に対する根本的な認識は本当に人間という次元に留まるしかないのでしょうか? それならば、あなたは一体何のために修煉しているのでしょうか?」という師父の講法を改めて読み、私は本当にとても恥ずかしく思った。

 師父は『人心を放下し、世の人々を救い済度する』の中で「長くから執着している人心を放下し、全面的に早く世の人々を救い済度してください」。「法を正す時期の大法弟子にとって、個人の解脱は修煉の目的ではありません。衆生を救いすることこそ、皆さんがやってきた時の大きな願いであり、法が正される中で歴史が皆さんに賦与した責任と使命です。ですから、大量の衆生は皆さんが救い済度する対象になります。大法弟子は法が正される中で賦与された偉大な責任を台無しにしないでください。更に、救い済度される衆生を失望させないでください。皆さんは彼らが未来に入ることができるかどうかの唯一の望みとなりました」と言われました。

 私は本当に人心を放下し、心性を昇華させ、法を実証し、衆生を済度する上で、真の主役として、衆生のことを思い、宇宙のすべての正的要素のために責任を負わなければならないのだ。「大法弟子が法を証明する中で歩む道、つまり自らを修めながら、衆生を救い済度し、同時に宇宙の法を正すことに対する要求に合わせて、法を正すことにマイナスの作用を働いたり、大法弟子に悪事を働いたりする黒い手と卑しい鬼及び、旧勢力が按配した妨害、迫害の要素を解体、根絶しています。これは即ち、大法徒が歩んだ完全無欠な修煉の道、偉大な神を圓満させ、成就させる道です」。(『棒喝』)

 心の中に本当に私(し)がなければ、恐れもなくなり、衆生の苦しみが感じられ、責任感、使命感が自ずと生まれるのだ!

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2005/12/11/116248.html