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娘と母は迫害により相次ぎ死亡

 【明慧ネット2005年12月23日】内モンゴル霍林郭勒市の大法学習者・符桂英さんは大法を堅持したため、幾度も迫害され、夫・張建龍さんとともに不法に拘禁され、労働矯正させられた。当時、幼い娘の張毅超さんは学校の悪党書記に週一で両親と関係を断ち切る書類を書くよう要求されたので、仕方なく学校から離れ、アルバイトを始めたが、2005年4月6日に死亡した。そして悪党から長期的な迫害を受け、母・符桂英さんは2005年12月17日に死亡した。

 符桂英さん(47歳・女性)は、1997年に大法に出会い、修煉を始めた。最初は身体の変化から、だんだん理性的に大法を認識し、病気が完治してから、大法の真の道を深く理解してきた。娘・張毅超さんは98年から法輪功を修煉し、明るい女の子で、かわいらしい子だった。

 1999年7月、江沢民集団は法輪功の迫害を始めた。符桂英さんは99年9月に北京へ大法の真相を伝えるため行き、大法のために心の声を伝えた。しかし同年の12月に不法に労働矯正を受けた。当時、現地の学校では学生に大法を誹謗する署名を要求したが、張毅超さんは断ったため、霍林郭勒市第四中学校の悪党の書記の孟憲民は、610オフィスと公安局の圧力で書かないと除名すると脅し、幾度も張さんに保証書を書くように要求した。2000年6月、張建龍さんは不法に逮捕され、それから張毅超さんは口数が減った。

 2001年9月17日、不法に霍林郭勒留置場に拘禁された数人の大法弟子は、不法な判決を下された後、悪らつな警察たちは悪事を働いた後に怯え、大法弟子の親族にも知らせず、いかなる衣類も持たせないまま、朝3時に大法弟子を図牧吉労働矯正所へ送った。符桂英さんと張建龍さんは一緒に車に乗せられ、家の中は14歳の娘・張毅超さんは一人家に残された。符桂英さんは言った。「娘を見たい」国安大隊、610オフィスの悪人の秦宝庫、翟托は、「おまえ達の子供はどうでもいい」と言って、彼ら夫婦を車に乗せた。

 2002年3月1日、学校は両親が法輪功修煉者であるという理由で、張毅超さんが学校に来るのを拒否した。会社の協力の下で、学校は張さんを受け入れたが、悪党の書記の孟憲民は、毎週張さんと相談し、週一回書類を書くよう要求し、両親と関係を断ち切るように脅迫した。2002年5月、張毅超さんは一人で家にいたとき、霍林郭勒市610オフィスと市公安局南広場派出所の秦宝庫、趙秀発、翟托、烏力吉などの10人あまりの悪者は、張さんの家で迫害の証拠を収集し、オンドル(朝鮮半島・中国東北地方などで用いられている暖房装置)とソファを壊し、家の中をめちゃくちゃにし、野菜を貯蔵する穴蔵まで探した。29日夜、ある子供らは、中共の邪悪な宣伝に影響され、大法弟子を敵視し、張さんの家のドアを叩き、たくさんの窓ガラスを壊し、張さんは極度に恐怖を感じた。

 2002年9月、符桂英さんは当初75kgの体重だったが、労働矯正所で迫害されて30〜35kgになり、重病のための服役中の一時出所をし、張毅超さんは悪者の迫害に極めて恐怖を感じ、家から離れた。当時わずか15歳だった。瀋陽と大連などでバイトして生活を維持し、決まった住まいもなく、肺結核を患い、何回も気絶し、2005年4月6日朝、病院で死亡した。当時18歳だった。中共悪党邪悪集団は長期的の迫害の中で、符桂英さんは2005年12月17日の朝6時に冤罪が晴れることなく死亡した。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/23/117144.html