グループ学法と交流体験
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文/台湾桃園 欧恵芬

  尊敬する師父、こんにちは!同修の皆さん、こんにちは!

 グループ学法と交流に参加する修煉体験を皆さんと分かち合うこの機会があり、とてもうれしく思います。

一、執着を放下して心を打ち明けて体験を話し、体験を話して更に執着を取除く

 私は1997年法を得ました。法を得たばかりの時、法輪大法の修煉に対する認識はとても浅くて、たくさんのことがよく分かりませんでした。古くからの学習者は私に多く勉強会に参加するよう励ましてくれました。長い間常人社会の染めもの甕の影響を受けてきたため、自分は傷つくことを避けるために、自分を保護する心や、弱みを見せたくない心、優勢になろうとする虚栄心、不自然に装う心が、とても強いので、平然として、真実に修煉の体験を表すことができませんでした。補導員が初めて私に話させる時、私は3言しか言えなかったことを覚えています。私は心の中で分かっていますが、自分はあまり純真ではないので、自然に体験を分かち合うことができませんでした。あの時修煉は始まったところで、いかに法に基づいて悟り、執着を取除くのかがよく分かりませんでした。

 師父は『精進要旨』の中で「弟子たちが修煉の感想と体験をお互いに語り合うのはとても必要なことです。意識的に自分を誇示することでない限り、互いに促進し合い、共に向上するのであれば問題ないのです」と言われました。それからの学法と交流の時、私の頭の中にいつもこれらの話が浮かんできて、とても喜んで同修たちと体験を分かち合いました。

 修煉してから1、2年のころ、私の人心はとても多かったのです。ある時60〜70人一緒に学法と交流をしているとき、私は言いたい体験があるのに、緊張しすぎて、動悸がとても速くて、話が出来ませんでした。私は心の中で自分に「なんで緊張していますか?」と聞きました。自分の損得心、名誉を求める心があることを意識し、自分が話した後の他人の反応を気にしたからです。私は自分に教えました。法に対して、同修に対して、自分の修煉に対して責任を持ち、言うべきことを言えば良いのです。1人を助けてあげることができさえすれば、体験談は無駄ではありません。私の良し悪しは人の評価によって決められるものではない、他人の反応は気にしません。師父は『精進要旨』の中で「大法には、名も利も情もなく、ただ修煉だけなのです」と言われました。

 またある勉強会で、皆さんと修煉体験を分かち合いたかったが、話せませんでした。私は自分に「どうして話せないのですか?」と聞きました。

 元々自分の悟りは高いと思い、人の上にいて、人を指導しようとする心があったから、その時の交流状況につながりませんでした。私は自分に教えました。同修の参考になるように、ただ自分の知っていることを穏やかに言い出せばよいのです。修煉の中で何度も言い出せなかったけれど、原因を探し、執着を取除き、心を純粋にするとようやく言い出せました。

 師父は『転法輪』で「それはほかでもなく、同じ法が異なる次元において異なる変化や現われ方を持つのです」とおっしゃいました。体験談を交流する時、自分は高く修煉できていないから、言う勇気がないことはありません。たとえわりに低い次元でのひと言でも、もし高い次元で修煉している同修の心をうち、彼を啓発し考えさせることができれば、その問題で同修のいる次元において、法の要求に達するよう促して努力させられます。私は「どのように他人に対して助けられるか」ということさえ考えればいいわけです。体験を話す時、もし自分の執着心が暴露されたら、高める機会を大切にすることができます。まじめに考えてみて、その原因を探し出します。

 大法を修煉し始めたばかりの時、私は深い人心と観念で大法を守ったのです。同修の発言は時には法に則っていないで、居合わせる同修を間違って誘導しかねないと思って、誤りを指摘してあげました。冷静に話そうと思っても、やはり若干激してしまい、事後考えてみると、あの同修に対してとても申し訳ありませんでした。師父は『2004年ニューヨーク国際法会での説法』の中で「皆修煉しており、人間が修煉しているのであって、神が修煉しているのではないので、……意見が違い、機嫌が良くなくても、穏やかに話さないといけません」とおっしゃいました。修煉者はすべての事において他人のことを先に考えなければなりません。同修であるから、考えなくていいというわけにはいきません。修煉の成熟につれて、このような情況にぶつかると、発言している同修の耐える力を考慮して、少し婉曲に自分の異なる考えを言います。

二、共に修煉の環境を守る

 1999年5月、家の近くの中学校に煉功点を設立しました。師父は『長春補導員法会での説法』で「皆さんにとって最も重要なことは、学習者が妨害されず、安定している環境を作り出すことです。これは皆さんの最大の責任です」と補導員に教えました。ただ動作だけを行い、法に基づいて心性を高めなければ、功が伸びることはありません。煉功点の同修と共に高めあうため、私は自宅を学法と交流の場所として提供しました。

 勉強会は土曜日の午後にあります。ふだん仕事が忙しくて、家はそんなにきちんとしていません。そこで土曜日の朝、急いで客間を整理して、床を掃除してから、同修に配る明慧ネットの文章をコピーに行きます。続いてみなさんにどんな問題を討論させることができるか、みなさんと分かち合うことのできる体験を考えます。月曜日から金曜日まで、比較的、印象深いことや、交流のできることを私はきめ細かく考えてみます。試練の過程の中で、どんな心が起きたのか、どんな念があったのか、法に基づいて何を悟ったのか、どのように心性を高めて歩んできたのか等等。必要なら、自分の悟った法理を少し捲って読みます。いつの間にか、探す能力が高まったし、捲った法理に対する印象も深くなりました。異なる交流に対して、発言を調整する能力も高まりました。

 かつてネット真相伝えの交流会で、ある技術責任者の学習者から「みなさん、私たちが上手にマウスを操作できることは、私たちが家ですでに練習して百回操作したからです」という話を聞きました。私は全く同感しました。勉強会で発言する同修は、家で多く努力しているのです。

 新しい学習者が勉強会に来て、もし聞かれた質問に補導員が満足に答えられなければ、もう来なくなるかもしれません。あるいは体験交流が修煉に対して促す作用が大きくなければ、勉強会に参加する意欲を下げます。その時、師父はまだ弟子に真相をはっきりと説明して、衆生を救うことを教えておられなかったが、勉強会をよく導く責任は重大で、すでに法を得た学習者の修煉に関わると理解しています。心の底から皆さんが皆、成就することを望みます。私はまじめに法を学び、皆さんと共に高まることができることを望んでいます。法を学ぶことは自分が圓満成就するためだけではなくて、もっと多くの人がいっしょに圓満成就するためです。師尊が私のこの気持ちを励ましてくださったのかどうか分かりませんが、法を学ぶ時、いつもすべての字が紫色の法輪に包まれているのが見えました。また金色の光が現れていました。

 法を得る人数の増加に従って、学法と交流の場所として、私の家はすでに込み合うようになりました。2002年2月に近くの別の学習者が提供したもっと大きい場所へ移りました。しばらくの間私は真相伝えに忙しく、勉強会に参加することが少なくなり、更に法の勉強も少なくなったので、正念を以って同修と相互促進することも少なくなりました。これは良好な修煉状態ではないと意識しました。その時多くの同修も真相伝えに忙しくて、勉強会に来る人は少なくなり、人数は少なくて、交流する内容はあまり豊富ではありませんでした。悪循環になって、次第に行きたくなくなり、人数はますます少なくなる窮状が現れました。

 それから皆さんは心の扉を開けて、交流によって弟子たちは自覚して修煉の環境を守るべきだと意識しました。私達のこの法門は常人の社会の中で修めるので、グループ学法と交流は常人社会の各種の汚染を薄めることができ、弟子たちの心性の修煉と真相伝えを確保することができます。師父の『米国東部法会での説法』には「ですから、古い学習者であれ、新しい学習者であれ、煉功点で煉功し、法を勉強しに行くようにと私は言いました。この環境はあなたをきれいに洗うことができ、常人に汚染された言動と観念を絶えず洗い流すことができます」と言われました。皆さんはこの環境の貴重さを意識して、その後、また30〜40人の同修が共に高めあう修煉環境を回復しました。グループ学法と交流は師尊が私たちに残した修煉環境であると認識しました。

三、個人学法とグループ学法と結ぶ

 修煉が始まって以来、家で本を読む時は、ゆっくりと表面の意味を理解することができて、更に読みながら、暗唱することができますので、皆さんと一緒に読むより理解する効果はよい。しかし止まって考えるから、学ぶ量は比較的少ない。師父の『北米第一回法会での説法』には「あなたが向上すべき時になると、この字の背後にいる佛、道、神はそれが見え、あなたがどの次元の理、どの次元まで至ったかを知り、この字またはこの一文の背後にある本当の内涵をあなたに分からせるのです。あなたはこつ然として分かるようになります」と説かれました。心性がすでに高まった時に、もし佛、道、神が私に法理の高い一層の内涵を分からせたいならば、私の法の勉強は少なすぎるため、私に分からせる機会はなくなります。もっと高い一層の法理を認識する基礎がなければ、どのようにして更に高い次元へ昇華することができますか?法を学ぶ量を確保するために、私はできるだけすべての学法と交流に参加しました。

 グループ学法の吸収効果は個人学法に及ばないという一念を抱いて、毎回グループ学法の時、精神が集中できず、学ぶ内容が頭に入らず、時には、遅刻した同修あるいはその他の同修を見ていました。2003年、しばらくの間、真相伝えと常人の仕事に忙しくて、勉強会の参加と個人の学法は減りました。11月北区の学法と交流に参加する前に「私は多く法を学ぶ時間はないので、今度の機会を利用してよく学ばなければならない」と考えていました。法の学びを渇望する一念で、みなさんと一緒に本を読む時、すべての字は私の頭に入りました。わずかな考えの違いで、効果は完全に異なってしまいます。

四、純粋な心で体験談を聞く

 大法の扉は完全に開けられたので、老若男女、各種の職業、各種の心性の人がいます。同修たちの体験談を聞くことは、自分を啓発して、自分の正念を強化する以外、修煉にもなります。

 ある同修から聞いたことですが、彼は学法交流グループの組長を担当して、同修の体験談を聞く時、いつも審査する心で、どこが法に合わないとかを検証して、それによって正しく導いたのです。このような情況下では、何も勉強することができず、耳にしたのは全部問題点と欠点でした。それからは、自分を調整して謙虚な心理状態で聞くようになってから、すべての同修から異なる長所を学びました。この体験談は深く私の心をうちました。師尊は私たちに教えましたが、「大法弟子がいかなる事に対しても正しく対応すべきで、人のよくない面を見ないでくたさい。いつも人のよい面を見ます」また「人のよい所を多く見て、人のよくない所を少なく見ます」。(『2003年旧正月十五日米国西部法会での説法』)

 もともと、自分の心性上の変化をあまり話さず、物事の細い点をよく話し、絶え間なく話すような発言に対して、我慢して聞いてあげていたが、一心に聞いていませんでした。最近このような状況の同修にぶつかって、私は自分を調整して、謙虚な心理状態で聞いてあげました。彼女がマンハッタンに行って真相を伝えた時、同じ寮に泊まる台湾のある学習者は、とてもまじめに法を学び、また苦労を惜しまず車に乗って遥か遠い所へ交流に参加しに行きます。表面では大法の活動にとても精進していますが、しかし生活面での節々にはあまり他人を配慮していません。本当に法が頭に入ったかどうかが分かりません……。聞いている内に、自分にもこのような問題があるのではありませんか?

 法を得てすでに12年間経った学習者は、かつて勉強会で自分の関門を突破する体験を分かち合いました。ある人が聞き終わった後に「お姉さん、あなたはこんなに長く修煉したのに、まだこのような執着がありますか?」と言いました。この古い学習者は恥ずかしく思い、その上他の要素もあり、あまり勉強会に参加しなくなりました。

 以前は私もこのような誤りを犯したことがあります。同修の体験談を聞く時、思うのは「え!彼はふだんよく見えるが、どうしてこのような執着がありますか?」ということがあります。同修が修煉体験を話して、何らかの執着を発表すると、その同修に対して少し先入観をもつようになり、彼にはこのような欠点があると認識してしまいます。師父は『2004年ニューヨーク国際法会での説法』で「実はある学習者はその他の方面で多くの心は皆取除かれ、多くの執着心はなくなり、表せないですが、しかしよく修めていない心はまた表されることがあります」と説かれました。

 今、同修が心の扉を開け放して自分の執着について交流することを耳にすると、彼のためにとても喜びます。彼がすでに不足を意識したため、その問題上で彼はすでに進歩しました。だんだんと気付いたのは、今日同修の体験を聞く時、表された顕示心、歓喜心、或いは闘争心は、次回聞く時、すでになくなり、あるいは弱まりました。大法修煉は人心をまっすぐに指して、執着を暴露させることができます。一心に修める人の次元突破はとても速いのです。私が見えたものは、同修自身でも意識したのです。だからこの問題上で彼はすでに高まりました。

五、文章の結び

 体験談交流の時、自分の体験を話す前や、他人の体験を聞いてあげる時、自分の体験を話した後に他人の反応はどうかと思うことは、自分のすべての念を検証しているのです。

 今年2月の米国西部国際法会の時、区内では私一人だけ参加しました。時差のためや、あまり自分の修煉状態を表したくないせいで、台湾へ戻ってから勉強会に参加する時、怠ける心で、交流する気はありませんでした。しかも一週間あいたので、多くの事はすでにはっきり覚えられなくなりました。私は消極的な状態になり、頭は空でした。改めて考えると、ただ私一人だけ法会に参加したので、法会と活動状況をみなさんと交流して、全体に法を正す流れの中に溶け込んでもらうべきです。正念が起きると、私はだんだんと元気になってきて、物事は一つ一つ浮かんできて、自分の心に深く打たれた部分も鮮明になってきました。

 私は体得しましたが、法を正す時期のグループ学法と交流は、個人修煉の時期と意義は違います。法を正す時期には、修煉体験を分かち合って、同修の正念を啓発して、同修の心を打って、同修によく修煉させることができるなら、同修に対応する天体のもっと多くの衆生は救われることができます。同修はそのために精進して、真相を伝える状態がよくなり、もっと多くの毒された衆生は救われます。師父は全宇宙の衆生が救われることを望まれます。無私無我にグループ学法と交流に溶け込んで、同修と共に精進することこそ、法を正す必要な道を歩んでいることにほかなりません。

 師父、ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます!

 (2005年台湾法輪大法修煉体験談交流会での発言原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/28/117461.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/2/20/70121.html)     更新日付:2011年9月28日
 
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