日本明慧


法を証明する角度からみた文学創作

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2005年12月6日】私は文学が専門でなく、専門的な教育をうけていません。子供のころからの趣味で文学が好きになりました。私はただ一人の大法弟子として法を証明する中での文学創作について論じたいと思います。

 1999年7月20日以前、私はあまり体験談を書いていません。迫害が始まって、ネット封鎖を突破してから、同修と交流する機会が増えて、邪悪を暴露し、真相を説明し、修煉の中での体験などを少し発表しました。この過程で、絶えず法を学び、同修と交流し、自分の実践から徐々にこれも大法が大法弟子に与えた法を証明する一種の方式で、これが、私が歩く道の一部だと認識しました。それでは、どうやってよく運用し、この能力で法を証明し、衆生を済度するのかも、私の修煉のひとつの方向になりました。

 文章を書いた同修なら、似たような体験を持っているかもしれません。文章を書いていくのは、絶えず自分の思想を修正する過程です。文化人の時代遅れの雰囲気、話のうまさや文筆のうまさに対する執着、孤高などの執着心はこの過程の中で徐々に捨てていきます。同時に自分が以前気づいていない問題も発見でき、疑問に思っている処も分かり、あやふやな認識がはっきりし、あたかも全然考えていなかった認識で、条理がはっきりしてすっきりします。文章を書くとき、神様に助けられている感覚で、正念が強く、思惟が非常に活発で、はっきりします。これらは根本的に常人の文学創作とは天と地の区別があります。

 大法弟子の文学創作の前提は、法を証明し、衆生を済度し、迫害に反対し、その中にさらに自分の修煉の要素が入っているため、創作の態度は非常に厳粛なはずです。これは法のため、衆生のため、自分のために責任を負うかどうかの問題で、常人の花鳥風月や文字遊びではありません。このような態度があれば、ちょっと気をつければ、ドキュメンタリーや感想文や文学創作など、多くの創作の題材が存在していることを発見できます。大法の中では驚天動地的な事件が多いし、自分の経験だけでも、多く交流できる体験があります。

 私の体験として、あること、ある人、ある言葉、ある心を打つ現象で、私はいつでも題目をもつことができます。このような反応は修煉者の感覚だと思います、これは我々の心性の向上とどこが違うのでしょうか?私はこの題目を紙に書いて考え始め、大体の答えが出てから、書くかどうかを決めます。体験談にするのか?ドキュメンタリーにするのか?邪悪を暴露し、真相を説明するのか?それとも文学創作なのか?どんな体裁を使うのか?どんな記述形式を使うのか?方向をはっきりさせてから、私はこの題目の内容を構築します。当然ながら、私は師父の説法のどれか一段を捜して復習することがあるかもしれません。ときどき素材を集めたり、資料を読んだりする必要が出てきます。このとき初めて「本は使うとき初めて少ないことがわかる」感覚になります。ある問題はすぐわかり、あるものは簡単に書けますが、しばらく時間がかかるものもあります。

 書くときは、静かな環境を選ぶ必要があります、私は普通夜を選びます、これでできるだけ邪魔を減らせます、もちろん外からの邪魔は簡単に対応できますが、自分の心が落ち着かなければ、三つのことをしっかりしていなければ邪悪に隙を突かれます。邪魔を排除し、心が落ち着いて集中すれば、よい創作環境が出来上がります。本格的に書くとき、構想がはっきりして、内容構造がすっきりし、具体的にどう書くかは正念が主導します。書き終わって私が何回も読み返し、修正して少しおいて、もう一度読んで修正します。最後にもし発表されたら、どこが書き換えられたのかを見ます、同修に似ている文章がある場合、比較して自分の不足を見つけます。

 もう一点は、積み重ねることです。常人は文学創作について実際の生活の体験を重んじます。修煉者としては、大法をよく勉強することがすべての創作の根本です。我々の修煉はもっとも確実に、生命、物質、人体、宇宙の真諦を感知しています。もちろん、師父は説法の中で我々に、なるべく知識を豊かにすることを教えています。私はこのような体験がありました。当初『転法輪』を読んでいるとき、「気功は修煉にほかならない」の中で「浮図」に言及したとき、私は瞬時に中学の国語教科書「漢方薬を採る」の中の「佛陀」と「浮図」の由来の注釈を思い出しました。

 我々が真相を説明し、文章を書く過程の中で、正念が主導作用を働くとき、本当に思考が千里に及び、自在に運用できる不思議があります。しかし、もし、見たことがなく、聞いたことなく、あるいは勉強したことがなければ、どうやって出てくるのでしょうか?もちろん、我々は選択的、目的をもって勉強しています。

 文学創作の過程の中で、私は徐々に古代文学、歴史についてもう一度勉強します。そしてわかったことは、たしかに、漢文の表現とその内包に関しては、現在の言語ではとても太刀うちできません。しかし、漢文は現在において使い道は限られていますし、多くの中国人、華人はそれがよくわかりません。一部の文字も認識できません。したがって、私は詩を創るとき、分かりやすさと読みやすさを念頭に、内容は伝統文化の中で人々が熟知している角度から人々に考えさせ、文章の構造は古代の要求には達しませんが、一部の単語は口語を使いました。本当の純文学創作であれば、たしかに内容から形式まで高い水準でなければいけません、大法弟子の作品はなおさらです。もちろん文学のための文学ではないので、法を証明することが第一です。師父は『美術創作研究会での説法』の中で、「本当に高い水準の作品はやはり技能が必要なのです。特に、展示会を行う時、正式で専門性の高い作品を出すべきです」といわれました。文学もそうだと私は思います、本当に能力のある同修たちは創作してみてください。

 ここにきて、美術を専門とする同修の体験を借りて、いい構想があれば出して、もっと能力のある同修と一緒に完成させましょう。私はいくつかの題目があります、一部は考えていますが、自分の能力では役が不足しています。だから、みんなとアイディアを交流したいと思います。『九評』が発表されて1周年になりましたが、『九評』が世界に伝播されている形式をみて、「『世界十悪』からみた共産党の邪悪な本質」という題目についてなかなか書けません。難度が大きいです。主な問題は素材です。また、『九評』が発表されてから世界中にこんなにいっぱい出来事があり、私は「九評賦」を作りたいですが、それも難度が大きいです。「誰が法を学んでいるのですか?」は私が自分の法を勉強する過程を振り返ってみたいと思います。そしてもっと師父が要求した三つのことをできるようにしたいです。それはまだ考慮中です。

 この文章に関しては、あくまで貴重な意見を得るためにとりあえず提出したもので、『成熟』という経文を暗記するときの啓示からきたものです。師父は「修煉の形式が成熟し、修煉者の修煉に対する認識が成熟し、人心がますます少なくなって理性的な行為の表れが成熟したと感じました」といわれました。どんな認識が師父の我々に対する要求なのか?と私は思いました。大法弟子の修煉形式はなんでしょうか?どうすれば成熟といえるのでしょうか?私に何か不足しているのでしょうか?考えているとき、ふっとこの題目およびこの文章を完成させる考えが出てきました。この文章の構想が終わるまで、私は師父のこの言葉に対する認識はもっと実在的な感受をうけました。

 ここでみなさんに一つアドバイスをさしあげたいと思います。最近明慧ネット上に多くの同修の法を暗記する文章が掲載されました、実は師父が1995年1月2日『北京法輪大法指導員会議で法を正すことの意見について』の中で「われわれの能力のある、年が若くて精力が旺盛である者は,年を取っている、記憶力の良くない者を除いて,皆この本を暗記して見なさい。私が提出したことはあまりにも高く,要求したことはあまりにも高いかもしれない」と言われました。

 絶えず修煉するにつれ、書いた文章は本当に師父が言われたように「見栄えや雰囲気を膨らませる言葉はありません。このような素朴、正確、清らかな、人間の情を持たない文章は常人には書けるものではありません」となります。これは日常的な会話や行動の中でも現れました。以前発表した文章は削除されたり、編集者に修正されたりしましたが、最近このような現象が少なくなりました。大法弟子の修煉がだんだん成熟していく中で、法を証明する中で、もっといい作品を作れると思います。また大法弟子が未来の人類に新しい文化を創ってくれるでしょう。

 以上は私が法を証明する中での文学創作に関する認識です、次元が限られているため、みなさんの指摘をおねがいします。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/6/115954.html