日本明慧


厳粛な態度で師父の経文を取り扱うよう呼びかける

 
 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2006年1月7日】この間、師父の経文を動まとめるかについて、学習者の間で話し合いがありました。これについて、私の個人的な認識を少し述べたいと思います。不適切なところがあれば、どうぞ、ご指摘ください。

 ネットおよび地元の状況によれば、私は、学習者達が師父の経文に対して程度こそ異なりますが、厳粛に扱っていないことに気づきました。幾つかの例をあげてみたいと思います。一部の資料拠点では経文を奇麗に製本することができるので、自分達の好みで師父の写真または法輪の図案を加えたりしています。私個人としては、このようなやり方は適切ではないと思っています。師父の写真を使用する際、常に慎重にすべきで、やむをえない場合を除き、海外で出版されている大法書籍に基づいて写真を選ぶべきです。ましてや、すでにある学習者が指摘されたように、これまで個人の好みで大法の仕事を行ってきた人達は皆迫害を受けました。甚だしきに至っては命を失ってしまうこともありました。これほど厳粛な問題です。

 また、誤字を訂正する問題においても、学習者達の大法に対する態度が現れており、今でも誤字を訂正していない学習者がおり、誤字を訂正したにしても真面目にしておらず適当にしています。その学習者に指摘しても、真面目に受け取ってくれませんでした。我々が読んでいる本は普通の書籍ではないということを再度考えてください。我々が読んでいる本はとてつもない奥深く、すべてを内包する大法です。しかし、我々が原因で誤字を多く作ってしまいました。この過ちは十分に大きいものではないですか? それでも自分が大法弟子と言えるのでしょうか?

 私は一度ある学習者の自宅を訪ねたときに、時間があったので、『転法輪』を借りました。すると、その学習者は非常に気軽に『転法輪』を私の足元に投げ出しました。私はこの学習者の法に対する軽率な態度に驚きました。

 また、一部の学習者は大法の書籍を他人に見られるのを恐れて隠しました。ある学習者が大法の書籍をぼろいスーツケースに隠しました。その学習者が言うには安全のために、さらにスーツケースの上に乱雑にものを載せました。これほど大法に対する不敬な心がある以上、書籍の安全は本当に保証できるでしょうか?

 大陸の現在ある条件下では、師父の新しい経文はおおむね単一に転送され学習者の手元に送られています。場合によって同時に多くの経文が送られて来ます。しかし、一部の学習者は師父の経文を整理して大事に保管しておらず、多く送られてきた経文を適当にどこかに置き、時間が経つに連れて経文を置いた場所すら忘れてしまうのです。また、一部の学習者はパソコン上でコピーした経文をあちこちへ置いてしまうことも多くあります。皆さん考えてみてください、このような態度で師父の経文に接していいのでしょうか?

 さらに、心性の面からこの問題を考えてみれば、実は学習者の中に二つの異なった態度に尽きると私は思います。その二つの異なった態度とは、我々は大法を自分の向上および円満成就するための手段としているのか? または、真に自我を放下し大法に対して責任を負う生命にまで修められたのか? ということです。

 これらのことはすべて厳粛に対応すべきです。修煉者にとって、大法に対して表した不敬な態度が最大の漏れでもあり、旧勢力に迫害する口実を与えてしまいます。真の修煉者は、旧勢力の迫害を逃れられるように大法の仕事を選ぶのではなく、師父が求めておられることに従って事を行うのであり、師父に対して大法に対して尊敬の心がなければなりません。現在、大陸の条件は厳しいですが、迫害を形式として我々が正しく歩めない口実にしてはなりません。学習者達はこの問題に厳粛に対応しなければならないと思います。

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2006/1/7/118210.html