日本明慧


寛容な心があってこそ真に内面を探すことができる

 【明慧ネット2006年1月8日】私は夫(同修)とともに法を得てから10年近くになりますが、この十年間、私達の間の心性上の試練において私はいつもしっかりと乗り越えることができませんでした。師父の経文「最後になればなるほど、精進すべき」の中に、「しかし、実際の修煉の中で、苦痛やトラブルがやってきて、心を刺激したとき、特に人間の頑固な観念を刺激したとき、やはりなかなか乗り越えることができません。ひいては試練を与えられているのだと分かっていても、執着を放下することができません。」と説かれています。

 彼が煉功を怠けると、彼が精進しないと思ってしまいます。彼と交流すると、彼は「あなたのために煉功しているよ」と言いますが、これは彼の本音ではなく、私を風刺していると分かっています。それで、私は内に向かって探しましたが、自分に間違いはなく、何も見つけることができず、その時心が非常に苦しかったのです。時に、彼は正念を発するときに昏睡してしまいました。注意をしたら、彼は「あなたほど精進していないから、あなたはよく修煉できているが、私はだめだよ」と言いました。この話を聞いて、私は非常に怒りましたが、仕方がなく、忍ばざるを得ませんでした。

 ある日、私は「あなたも明慧の文章を読むべきだ」と彼に言いましたが、彼は「私を指揮するな。私がどこまで修めるかあなたと関係ない」と反駁しました。だから、私は師父の法を読んであげました。「ある人はわたしに、『先生、常人の中でよい人になればそれで十分でしょう。誰が修めて上がってゆけるというのですか?』と言いました。これを聞いて、私は本当に悲しくなりました! 何も彼に言うことはありません。どのような心性でもありえますので、彼は悟れるだけ悟るわけですが、悟る人こそが得るのです」(『転法輪』)。彼はこれを聞いて、「あなたは法で私を抑えるな。これから法で私を抑えると、私はもう修めないぞ」と強く反発しました。私は彼が修めないことを怖がってすぐに謝りましたが、心の中ではこのような千載一遇のチャンス、師父の慈悲なる済度に恵まれ、歴史がこれほど偉大な責任を与えてくれて、どうしてこんなにだらしないのかと彼に不満を持っていました。

 このように10年間、私はどうしても人間の思惟方式、後天に形成された観念からなかなか抜け出せませんでした。しかし、これらの観念は時間が経つにつれ、ほかの空間に形成された物質がまたこの空間にこのような表現形式に演化しています。執着を帯びて、観念を帯びて、永遠に放下していない人心を見つけることができません。

 数日前に、私達が夜12時の正念を発してから、彼は先に寝ました。このとき、師父の詩が私の神の一面を啓発しました。「同心にして世間に来る 法を得て已に先に在り 他日飛んで天に去る 自在にして法は無邊」。これを通して、二つの異なる天体を代表した生命がこの世にやってきて一緒に法を得て、一緒に法に同化し、一緒に大法を証明し、ある日、われわれが各自の天体に戻り、私達の間の縁は修煉の道に共に高まり、共に精進するために作られたものだと悟りました。師父が「それは一種の洪大な寛容であり、生命に対する慈悲であり、全てに対して善意をもって理解するという状態なのです。人間の言葉で表現すると、相手のことを理解することができるということです。」とおっしゃいました(「2002年度ボストン法会での説法」)。師父がこれほど博大な法理を下さり、われわれに放下できないものがあるでしょうか? このとき、私は涙が知らないうちに出てきました。今までなかった寛容が現れ、心が小宇宙のように大きくなり、明るくなり、あらゆる執着を一掃したように感じました。このとき思いついたのは、みな彼の良いところでした。苦しみに耐えられ、どんなことにおいても他人を先に考慮し、同修と熱心に交流する、などなどです。

 このような局面をきたす原因を反省すると、嫉妬心、顕示心、私心、自分を高く見る、他人を低く見る、いつも他人の揚げ足を取るような態度を取り、他人の良くないところをよく見たりする、などなどの観念が根本的な原因でした。いわゆる「彼が精進しない」という観念も彼にコンプレックスをきたし、しかも彼に自分が精進しないという観念を形成させ、さらには彼に精進しない状態をきたしました。また、私は彼の観念が言った言葉を彼自身とみなしており、自分に問題があって内に向かって探すべだきと分かっていながらもなかなか情から抜けだせませんでした。

 がこれほど不思議であり、私は内面に向けて探し始め、自分の各種の心を見つけた際に状況が変わりました。二日後、彼は積極的に私と一緒に法を学び、一緒に交流し、一緒に真相を伝え、一緒に資料を作ろうと提案しました。

 私の感得ですが、寛容があってそこ他人の長所を見つけ、自分の執着を見つけることができ、寛容な心があってこそ完全に法に溶けこむことができます。

 ここまで書いていると、私は師父の法を思い出しました。「大法弟子として、できるだけこれらの常人の心を抑制し、常人の心が発揮できないようにし、できるだけ自分の道を正しく歩むべきです。全ての環境の中で、起きた全ての出来事の中で、正々堂々と振る舞い、寛容で度量が大きく、相手を理解することができ、できるだけ全体から物事を考えることができれば、多くのことが良く行われると思います。」(「2002年度ボストン法会での説法」)。


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/1/8/118245.html