日本明慧


仕事の基点を正しくする

 文/大連大法弟子

 【明慧ネット2006年1月9日】大法弟子は常人社会の中で修煉している。常人の仕事と生活があって、毎日の出会いはすべて常人と関係があり、常に修煉者の状態を保つことはとても重要で、直接に正法の過程の正念正行に影響する。

 この一、二年来、私の勤め先の仕事が段々増えて、最初、私は気にしなかった。分配されたら、その通りに仕事をしており、なんとか対処できた。それから、国家級の仕事が次から次へと私がいる部門に来て、しかし、具体的にこれらのことをやる人はわずかで、私が主にしていたので、周りの方はとても名誉のようにみていた。私は何も考えず努力していたが、仕事のストレスが段々溜まると感じていた。前のように精進せず、心の中で焦っていた。

 私はこの仕事の忙しさはどうしてなかなか終わらないかと考えてみると、問題を考える基点が違ったことが分かり、その中にたくさんの常人の執着心があった。同僚の前では、私は能力があり、彼らは私の若さと、私が重んじられることを羨ましがった。私の福は大法弟子だからだと私は分かっていたが、時間が長く経つほど、私の歓喜心は膨張していた、自分は確かに能力があるのだと思うようになった。旧勢力は仕事で私の時間と精力を潰し、表面に表れたのは私の仕事が多く、次から次へとあった。この点を認識した後、私は正念で自分の歓喜心を取り除くと、情況がちょっと変わった。

 しかし、上司はいつも私に仕事を渡した、私は法理にまだ認識できてない部分があると思った。学法を通して、私は旧勢力のわなの中に陥ったと悟り、私の人心に陥ったことばかり考え、正法修煉の真義を見落としていた。私の基点が間違っていた。あったことをただ個人修煉の面で考えた。自分は正法時期の大法弟子であることを忘れていた。正法の角度から問題を考えるべきで、本当の責任は師父と一緒に法を正すことであり、常人の仕事の中に陥るのではない。

 これらを悟った後、私は泥沼から跳び出したように感じて、この虚像から出た。仕事の面も2人の博士が一緒に手伝うようになり、かなり軽くなった。

 師父は私たちにたくさんどのように旧勢力を否定するかの法を説き、毎回の講法の中で言及されたが、私たちは実際の修煉の中で、具体的な問題にあったとき、本当に認識できるかどうか、これは容易なことではない。特に一つの難が長く続くとき、自分は正法時期の大法弟子であることを見落としている。正法修煉の意義と個人修煉の意義は完全に違うのだ。正法修煉をよく理解しなければ、難から抜け出すことはとても難しい。

 私たちは常人の中の能力は大法から与えられたもので、この能力も大法を証明するのに使うためで、常人の問題を解決するためではない。私はこの能力を仕事だけに使い、自分が大法弟子であることを見落としたとき、この能力は淡泊化された。基点を、大法を証明することに置くと、この能力はいつまでも絶えず、時には自分も驚くほどだ。

 修煉の中で、多くのことにあって、基点を正した後、情況は大きく変わった。師父はおっしゃった
「大法弟子が今日歩んだこの道は歴史上かつてなかったことです。多くの世の人々の頭の中で既にある固定観念が形成されました。つまり、宗教にしても信仰にしても、または自らが修煉している者の立場からにしても、出家せず、世俗から離れなければ、修煉することができないと思っています。大法弟子のこの修煉方式は前例のないものであり、手本はないのです。今まで、大法弟子の修煉の中に手本がないと私はいつも言っていましたが、個人修煉の中で自らの道を歩まなければならないだけではなく、私が皆さんに伝えたこの修煉形式さえ参照できるものはなく、皆さんが自分でこの道を切り開かなければなりません。なぜでしょうか? これまでの修煉の中で皆さんは既に体得し、悟ったと思いますが、私は異なる場でこの法を既に説きました。つまり、大法弟子に賦与した歴史的責任はあまりに大きく、相手にする衆生が多く、弟子に対する要求も高いからです。また、今日の世の衆生の元神も大きな根基を持っているからです。ご存知のように、皆さんは大法弟子であり、法を正す時期の大法弟子です。『法を正す時期の大法弟子』の責任は非常に大きいのであって、この称号の内涵はあまりに洪大なのです」。「(『米国西部国際法会での説法』)

 常に自分は正法時期の大法弟子であること、法のためにきて、正法の中で新たになった生命であることを意識すべきだ。最後の道で、もっとうまく行いましょう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/9/118272.html