日本明慧


師父の慈悲を利用してはならない

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2006年1月19日】長い間、法を正す時期における三つのことをうまくできなくて、とてもいらだったり、焦ったりしている。同修と交流し、内に向けて探した結果、多くの執着心を見つけたが、なかなか取り除かれなかった。例えば、法を勉強する際、疲れを感じると、今日はここで、また明日にしてもいいじゃないかと思ったり、座禅の時、足が痛くなると今日はここまでにしよう、後で時間があれば、頑張ってもいいじゃないかと思ったりしている。正念を発する際、自分を緩めて、座禅、立掌ができても、長く正念を発することができても、そのようにしない。真相を伝える時、聞いてくれない人に対し、怒ったり焦ったりして、放棄することもある。「これがどうして大法を修煉している大法弟子の行為であり得るのか?」《『法輪沸法』(精進要旨)(一)環境 》

 なぜ何年も修煉してきたのに、こうした行為がまだあるのか? なぜ執着心を見つけても取り除かないのか?

 落ち着いて法を勉強してから、その根源的なものを見つけることができた。師父の慈悲に対して、私は厳粛に真剣になっておらず、自分のわがままに任せていたということである。私たちは良く行っていなくても、師父は私たちを許してくださる。私たちを待ち続け、何回もチャンスを下さるだろう。私たちが転ぶと、師父は私たちに手を差し伸べてくださるだろう。私たちが落ちると、師父は私たちを救い済度してくださるだろう…というように考えている。私たちはやるべきことをやったが、少しよくできても、師父は常に私たちを励ましたり、褒めたりしてくださる。しかし、私はこういう師父の慈悲を精進するパワーとしていないどころか、そういう師父の慈悲を避難するための港、保護用の傘とみなし、常人の状態から抜け出そうとしない口実としているのである。

 しかし、私たちはこうした千載一遇の仏の洪大な恩恵に恵まれて、しっかりできないと、果たして師父の弟子であるという資格があるのか? 再び邪悪に私たちの放任した隙につけ入れられてはならない。機縁は貴重なので、大法に従って、早く成長していこう。

 個人の悟りなので、間違いがあれば、ぜひ慈悲にご指摘をお願いします。



(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/1/19/118962.html