日本明慧

放下した後の無頓着

【明慧ネット2006年1月20日】会社の人事異動で多くの人が昇進したので、同僚が「社内メールで調べてみたら?」と言いました。でも、はっきり言いますと、私はそんなことをちっとも気にかけていません。今考えてみると、昔の自分はなんとそのリストの中の一員になりたくてしかたなかったことでしょう。法に出会ったばかり当時、あえて他の修煉者に「修煉したら名利の追求はいけないことなのですか?」と聞いた覚えがあります。その修煉者は「いくら昇進しても、いくらお金持ちになっても、気にしなくてもよいのです。自分の心が放下できるかどうかが問題です」と答えてくれました。これで心を沈めることができたかというと、その時の自分はまだ理想と抱負を抱えていました。

 数年間の修煉の道程をここまで歩いてきて、すでに名、利、情を放下できており、同僚の出世を目の当たりにしても心が動じることなく、いかに清浄で自在なことか。うらやましくもなく、残念な気持ちもなく、ただ祝福の思いだけがあります。しかし依然として、自分の通帳にまた数桁の数字が増え、会社のボーナスを楽しみにしていました。物欲を追求する心でいくら稼いでも満足することはできませんでした。しかし今や、ボーナスは私にとって意義が違ってきました。以前は自らの私欲を満たすためにありましたが、現在は公の立場に立って衆生を救い済度することしかありません。財布は薄くなりましたが、心は充実しました。なぜならば、私はやるべきことをやったからです。

 『洪吟』中の「覚者」にあるように、「常人我をしらず、我、玄中に座す在り 利欲の中に我無く、百年の後我独り」を読んだ時、この詩は名、利、情を放下できる人のことを言っていると気付くことができましたが、今までこれは師父本人のことを指していると思い込んでいました。今は、次のことに気づきました。もし名、利、情を放下できるならば、いわば常人の中で悟りを開いた人間であるのではありませんか? 覚者は、すなわち修煉して悟りを開いた人のことです。

以上は個人の次元においての体感ですが、慈悲の指摘を宜しくお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/20/119056.html