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石家荘:法輪功学習者・楊暁杰さんは河北省第四刑務所で虐殺(写真)

 【明慧ネット2006年2月10日】法輪功学習者・楊暁杰さん(40歳男性)は、2005年12月28日に家族全員が河北省第四刑務所(石家荘北郊刑務所と呼ぶ)及び河北省刑務所管理局に行って交渉した結果、第四刑務所は息絶え絶えの楊さんを誤魔化すことが出来ないと思い、家族に返した。医者は「こんな状態になっているのに、いまさらもう遅すぎる」との一言だった。楊さんは1月26日の午前11時15分に亡くなった。(明慧ネットで報道)

楊暁杰さんの生前の写真 楊暁杰さんの死後の写真
医者の所から帰る時の腰部の写真(カメラの日期が合せてなかった)
家に帰って撮った膝の写真(カメラの日期が合せてなかった) 楊暁杰さんの死後の胸部写真

 石家荘北郊刑務所の悪党の公安部門の警官が楊さんを虐殺した犯人である。彼らは天罰と法律で裁かれることは間違いない。楊さんは法輪功を修煉して、真善忍を堅持して良い人になるよう努めた。1999年7月20日から、彼は職場を解雇され、何回も悪党の役人から不法に家財を差し押さえられ、拘禁されて11年の刑罰を下され、最後は石家荘北郊刑務所の迫害により虐殺された。彼の妻・劉潤玉さんも不法に11年の刑罰を下されて、今も河北省の女性刑務所で迫害を受けている。

生前の楊暁杰さんと娘・楊文ジング(女+青)さん 生前の楊暁杰さんと妻・劉潤玉さん、娘・楊文ジング(女+青)さん

 楊暁杰さんは身長が175cm、体重が140kgだったが、刑務所を出るときは70kgしかなく、体はかばんの骨のようになっており、臀部さえ肉がなく、太ももの2つの骨は皮とつながっており、話す力もなく、気管は痰が詰まり、胸部は水が溜まって、呼吸もなめらかでなくて、ほとんど昏睡状態にあり、たまに座るときや寝返りは他人に助けられており、脊椎には堪えがたい激しい痛みがあった。

 実は、刑務所は楊暁杰さんを腫瘍病院に連れていき検査して不治の病にかかっていることも知っており、「保釈書」にも隔膜腫瘍、骨結核と書かれていた。しかし楊さんが脊椎の激しい痛みで1年以上苦しみ、半身不随で3カ月寝たきりになり、体が極度にやつれて、衰弱している情況の下でも、中共の刑務所は「転向」しないことを理由に、1年以上家族との面会を許さず、彼の体の情況を隠して、重病のための服役中の一時出所を妨害した。

 楊さんは、1995年初から法輪大法の修煉を始め、心身共に大きく変わり、職場で賞金や表彰を受けたこともあった。生活面でも、楊さんはまめで質素で強靱な人で、頭の回転も速く手先も器用で、親孝行で人を助け、隣人や町内でも大評判だった。1999年以前、彼はかつて煉功場の人々を助けて、他の学習者に書籍を送り、辛いことも困難も平気だった。楊さんは家族と一緒に仲良く幸せな暮らしをしていた。

 中国共産党のごろつき集団による法輪功に対する血生臭い迫害が始まってから、彼の一家は平凡な暮らしを失い、楊さんはこの上ない苦難に遭い、一家は離散し肉親を失った。1999年7月20日、楊暁杰さんは合法的な権利により、北京に陳情に行って、法輪功の真の情況を知らせた。帰って来た後、石家庄市の派出所に不法に拘禁され、1999年10月10日には職場が圧力を恐れて解雇した。1999年10月31日、楊さんは再び北京に陳情に行き、彭後町派出所に不法に2日間拘禁された。その後、楊さん夫婦は県の留置所に15日間拘禁された。彭後町派出所の悪らつな警官・方亮と指導員・李少杰は、楊さん夫婦を橋東区留置所に6日間拘禁した。

 2000年4月12日夜、石市彭後町派出所の警官・方亮は、私事の助けを理由に、楊さんを彭後事務所までだまして連れ出し、不法に拘禁した後、解放したが、長期にわたって監視を行った。2000年7月18日の朝、彭後街派出所の悪らつな警官と防衛メンバーらは「北京に陳情に行くことを防止する」のを理由に、強行に楊さん、妻・劉さんと11歳の娘・文ジング(女+青)さんを彭後街派出所に不法に連行して拘禁し、夜7時過ぎには、家族3人を轄区域の農機ホテルの4階客室に監禁して、人身の自由を制限し、強制的に洗脳を行った。7月20日に彭後街派出所の悪らつな警官・方亮は、楊さんを石家庄市第一留置場に監禁して洗脳を強要し、116号室に不法に30日間拘禁した。楊さんは法輪大法「真善忍」の修煉を堅持したので、悪らつな警官・方亮と彭後街事務所主任・趙は労働教養を口に出して脅し、家族から1万元の保証金をゆすろうと企んでいたが出来なくて、家族を不法に47時間拘禁した後、人々の強烈な抗議により、妻の劉さんを釈放した。

 2000年9月29日、迫害を避けるために、楊さんと妻・劉さんは路頭に迷うようになったが、2000年10月には悪党の不法役人に指名手配され、2001年9月28日の夜、石家荘団地で、捕まえられてその場で殴られた。劉さんは逮捕されて彭後街派出所まで不法に連行され、最後は第一留置場に閉じ込められて迫害された。楊さんは彭後街派出所で強制的に7日間鉄椅子に座らされ、さらに第一留置場、元氏県留置場、石家荘東風路留置所、石家荘第二留置場等に不法に拘禁されて迫害を受けた。

 2002年2月10日、楊さん夫婦は、石家庄市橋西区の検察院から追捕判決を下されており、2002年9月9日に橋西区の裁判所から不法な審判を受けた。楊さんと劉さんは、ただ法輪功を信奉し真実を話しただけで、2人とも不法に11年の刑罰を下された。

 2003年7月15日から2005年12月28日まで、楊さんは不法に河北省石家荘北郊刑務所(河北省第四刑務所)の11区に拘禁されており、妻・劉さんは不法に河北省の女性刑務所一区に拘禁された。

 石家荘北郊刑務所は楊さんが「転向」しないことを理由に、彼を厳しく見張っており、いつも閉じ込めて、虐待し、殴りののしり、長期に亘り睡眠を剥奪し、絶えず体罰や、精神的な圧力を加えて、彼に「転向」を強いて、彼の精神を緊張と抑鬱状態に置いた。警察は30日間彼を眠らせず、3回も監禁した。冤罪が晴れず、訴える所もない情況の下で、楊さんはかつて2回も絶食を行って1カ月間抗議をしたことがあるが、警官は他の受刑者を使って彼を殴り、苦しめた。

 2003年9月から12月の間に、刑務所所長・汪国斌は、他の受刑者・範江山を利用して楊さんを殴ったので、お腹は痛くなり、歯が2本落ちた。その後警官は彼の手と足に手錠を掛けた。しかし範江山は法輪功学習者の迫害に参与したことで奨励を受けて、減刑されて早めに出獄した。

 2004年6月2日の夜、楊さんは洗脳劇を見ることを拒否したため、監禁を命じられたので、絶食を行って迫害に抗議した。6日の午前、刑務所の所長・汪国斌は灌食し迫害した。パイプを鼻腔から食道に差し込んだ後、細いからと言って太いパイプに交換して胃まで挿し込んだ。汪国斌の指示で、医者は高濃度の塩水を注ぎ込んだ。その瞬間塩水は彼の胸腔、鼻腔と口に充満した。楊さんは突然のものすごい苦痛に遭って、猛然と起きて座って、食道に入れたパイプを抜き出した後気絶した。野蛮な灌食の後、彼は3日間連続で、咳をし、血を吐き、高熱を出した。



(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/2/10/120504.html