日本明慧


より強く結びつき、一体となる

 【明慧ネット2006年3月5日】最近、各地の同修の間に大きな隔たりが現れているという話を聞きました。この話が私の耳に入ったのは偶然ではありません。われわれもこのような問題を直視しなければならないと思いました。

 以前、一人の同修が私を誤解していました。私は彼に手紙を送り説明しました。しかし、まったく返事がありませんでした。われわれの空間場に不正の要素があるなら、必ず取り除かなければならないと考えて、自分の内面に向かって探し、自分を高める要素以外に当事者としての私はこのことに直面しなければならず、しかもこの空間場を正さなければなりません。私は集団学法の時にこの話を出して、誤解を解こうと思いました。

 集団学法の当日、私の主人は「あなたは、誤解の説明に行くのですよね、あなたはなぜ自分への他人の見方にそれほど執着しているのでしょうか?」と私に言った。私は「私が行くのは言い訳しに行くのではありません。もし、誤解を解く機会があったら、みんなにとっていいのではないでしょうか」と私は言った。主人が私の主張に賛成しなかったけれど、私は家を後にした。道中、風と雨が強く、半分ぐらい走ったところでバイクの鍵がなんと弾けて落ちました。これはほかでもなく、邪悪が私の誤解を解くことを怖がっていると意識して、すぐ私は会場に駆けつけました。結局はこの事がいい結果を収めました。

 同修間の矛盾も心性上の試練です。同修間は一時的に互いに不平をこぼすために、各々の小集団を形成し、無責任なうわさを聞き流したりして、同修間の偏見を深めています。これはわれわれの集団に大きなマイナスを与えています。

 修煉の過程に難や関に遭遇するのは当然のことであり、この時には自分の考えや自分のなめた苦労を同修に打ちあけがちです。しかし、私は打ち明ける相手を慎重に選びます。また、できるだけ、この難や関を完全に乗り越えられた後に、同修と私の体験を分かち合います。単なる不満をこぼすだけで不平をこぼす状態に陥りたくないのです。なぜならそのとき話したことには往々してたくさんの常人の心を帯びているからです。だから、私は同修と交流したときに、相手に私の話を聞いてほしい以外に、私の足りないところをも指摘して欲しいのです。もっと大事なのは、私との交流で同修間に隔たりを生じさせないことです。私は何も隠さずに自分の考えを言えるのですが、時にはあまりにも素直なので自分の心の底の話を言い出したとたん、取り除くべき執着心がすぐに浮上してきます。

 文章を書くのも交流の一つの方法です。顔を合わせる交流以外に文字の交流を通して互いの隔たりを取り除き、よりがっちりした集団になりましょう。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/3/5/122032.html