日本明慧


自負の執着

 文/台湾の大法弟子

 【明慧ネット2006年1月26日】最近、私はある関を乗り越えています。私の自負心が一連の打撃を受け、心深くに潜んでいた執着が暴きだされました。

 より最近のことから話し始めましょう。私は今まで、自分は会社の中で仕事がわりと出来る方だと思っていました。しかし、ここ数日で自分は全然出来ておらず、そのために更迭されてしまいました。ほんのわずかなことがうまく出来なかっただけでしたが、会社の要求は比較的厳しく、私がそれを重視しなかったために、このような結果になりました。今まで私が自負してきたことが、今となっては一文にも値しないことにやっと気づきました。

 たとえば、私は自分のコンピュータの技術を自負していたのですが、この会社では技術があるだけではだめで、物事の処理能力、人との接し方、サービスの態度、礼儀、そして会社とのチームワークなども、よくなければなりません。私は6〜7年のキャリアがあり、お客さんのパソコンの問題で解決できないものはないことを自負していました。しかし、今になって知ったことですが、私のサービス態度がよくないので、私ではなくて、ほかのエンジニアに替えてほしいと私の主管にこっそりと頼んだお客さんもいたそうです。私はやっと自分の不足に気づかされました。

 あとは、ダンスのことです。先生にダンスの姿勢などを少し習ったことがあったので、ダンスが少しうまくて、それを自負していました。自分の動きはほかの人よりいいので、練習のときもあまり熱心にせずに、それらの動作はとても簡単で、すぐに身につき、大して練習は必要ないと思っていました。心の中で「以前体操をやっていたとき、これよりもっと難しい動作も出来たから、ダンスなんて簡単すぎて私に出来ないはずがない」と思っていました。

 しかし、このよくない心のせいで、私は飽きるほどの苦しみを味わうことになりました。ダンスのときに先生が私の役を替えて、さらには最近先生の注目がもはや私ではないと感じました。今日も先生はほかのダンサーに前方宙返りの模範をさせました。前方宙返りは私がとても自負していた技なのに!先生はどうしても私に模範をさせようとはしませんでした。これは本当に心性の関でした。
 
 今、思い返すと、私が今まで自負していたことはすべて常人の中の小さな能力にすぎず、それによっていい気になっていて、心性の向上に重点をおかずに、これらのことに執着していました。しかし、これらは一瞬のうちにすべて否定されてしまいました。その瞬間、本当に計り知れない失望感に襲われ、すべての自信がなくなりました。これは「名声」に対する執着ではないでしょうか?

 私は今までこれらの小さな能力のために生きてきたのでしょうか?これらがないと生きていけないのでしょうか?この執着はあまりにも恥ずかしいものですが、私はこのような「名声」に執着してしまっていたのです。

 ほんのわずかな悟りです。不適切なところがありましたら、どうぞご指摘ください。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/1/26/119477.html