日本明慧


師の恩を思いおこす(3)

 文/長春の大法弟子

 【明慧ネット2006年1月31日】万事は始まりが難しいと言います。法輪功の歩みも、初めは、とても苦難に満ちていましたが、しかし発展は迅速でした。初期のころ、師父は人々に法輪功を知ってもらうために、大勢の人々の病気を治されました。私の友達の中に、このような光栄に恵まれた人が多くいました。たとえば私の友達は、リューマチを患っており、彼女の夫は萎縮性胃炎(聞くところによるとそれは胃癌の前の段階だという)を患っていましたが、師父の治療を一回受けただけでよくなりました。 

 師父の家には常に大勢の人々が病気治療を受けに来ていて、師父はとても大変でしたが、毎朝、公園に行って煉功と洪法をなさいました。師父について煉功したたくさんの人々の病気はとても早く治りました。たとえば私の友達の姑は首に卵大のこぶができて、医者に癌なので手術を受けなければならないと言われました。友達は姑を連れて長春に手術を受けに来ましたが、彼女は手術をする前に、姑を連れて師父が煉功される場所で一緒に煉功をしました。すると姑のこぶは忽ち消えました。なんと姑の家に供えたものが彼女を苦しめていたのでした。実はその時師父は彼女を治療したわけではないのですが、よくなったのです。同修は、師父のエネルギー場のなかで、それは立ち止まることができず、解体されてしまったか逃げてしまったと言いました。 

 1992年5月に師父は第1期の講習会を開かれました。200人近い人が参加しましたが、これはその当時ではとても容易なことではありませんでした。6月中旬に長春での第2期講習会を終え、師父はすぐ北京に行かれ講習会を開かれました。8月に帰って来られ、第3期講習会を開かれました。 

 私が参加したのは92年9月8日から17日までの第4期の講習会で、場所は吉林省委員会の講堂でした。他の人に講堂は1000席ほどあると聞いていましたが、私が見回して見たら、講堂中に空席は一つもありませんでした。法輪功の迅速な発展ぶりは本当に人を驚嘆させるものでした。その時、腰部に重い物の衝突を受けて半身不随になり、長い間治療しても治らなかったある中年女性が、担架に乗せられ入って来ました。師父が彼女に数分間の治療を行われた後、彼女は自分で立ち上がって歩くことができました、続けて彼女は会場内をぐるぐると3周歩き回りました。それ以来、彼女と彼女の夫は毎日公園で煉功を行いました。彼女の事は迅速に伝わり、多くの人々が彼女の煉功している煉功場にきて、彼女と一緒に煉功するようになりました。1992年9月14日、師父は彼女たちの煉功場に来られて、きれいに場を片付けてあげられました。この日彼女たちの煉功場は正式に発足しました。

 9月17日、長春での第4期の講習会を終えられた師父は、その夜、列車に乗ってほかの地方に講習会を開きに行かれました。9月17日、講習会の最終日、私達の要請を受けて師父は私達の煉功場に来られました。その日の朝、師父がお見えになると50〜60人の人たちが病気治療を求めて師父を囲みました。師父はほほえみながら彼らの要求に同意されました。師父は彼らに「あなた達は列を作ってください、私はあなた達に一人に一つだけ病気を治してあげます、もしあなた達が完全に回復を望むならば、法輪功を修煉してください」とおっしゃいました。

 この日から私達の煉功場は正式に発足しました。それだけ多くの人の病気を治して、師父はとても疲れられたと思いましたが、師父はその日の夜、電車に乗ってほかのところの講習会に行かれました。師父は2年半の間に、大河の南北、長城内外のいろんな所で講習会を54期も行われました。当時、師父が法を伝えるために、どれほど苦労されたのか人々には想像し難いものでした。師父はその2年半の講習会を行う期間中、長春で講習会をされた時以外は、ほとんど家に帰られませんでした。 

 長春で講習会をされる時には、絶えず新しい学習者がきたので、師父は夜は法を説かれ、朝は各煉功場に行かれ学習者に煉功を教え、学習者の身体を浄化してあげられました。私のある友達は彼女自身の奇跡を語ってくれました。彼女はとても若かったのですが、原因不明の高熱の病気を患っていました。高熱は常に40度を上回り、抗生物質、解熱注射を打っても全然効果はなく、ホルモンだけに頼って維持しましたが、症状がひどくなり危篤病棟に入れられ、死ぬところでした。しかし不思議なことに彼女の夫のいる部隊に夫に会いに行った時、彼女は、部隊の軍医が出した漢方薬の薬草を服用して効き目があり、熱が下がりました。しかし家に帰って同じ薬を飲んでも効き目がなくなるのでした。私は彼女のことをかわいそうに思って、彼女に法輪功の煉功を薦めました。幸運にも彼女が煉功しに来た時、ちょうど師父が煉功場に来られました。その時彼女は抱輪をしていましたが、あるものが数回回転した感じがして、彼女が目を開けて見たら、師父が彼女の隣に立っておられました。その後、彼女は私に「師父が身体を浄化してくださり、彼女に原因不明の高熱をもたらした違う空間からきた邪魔の要素を取り除いてくださったことがわかった」と言いました。それ以来彼女は二度と病気を患うことなく、体はますますよくなりました。 

 大法を修煉してすばらしい効果をもたらしたため、煉功者はますます多くなりました。私達の煉功場は94年の初めごろには200人ぐらいに増えました。私達の煉功場は小さいため、一部の学習者は私達の煉功場の近くの大きい広場で新しい煉功場を作りました、94年6月になって、その煉功場にくる学習者の数は500〜600人になりました。 

 師父は私達に法を説かれただけではなく、師父の行為も至る所で大法の精神を体現されました。幸運にも何度も師父に近づく機会に恵まれた私は、師父が物事を処理されるすべてが法の体現であることを感じました。ある時、師父は長春にお戻りになり講習会をなさることになりました、その当時、他の気功はみんな不人気だったのですが、法輪功だけはますます影響が大きくなっていたため、市の気功協会は師父を座談会に招聘しました。私は幸運にも参加できました。座談会で別の門派の人たちが言いがかりをつけて法輪功にけんかを売ってきました、彼らは年上であることをかさにきて、言葉遣い荒く師父に当たって来ました。師父は彼らに温和にしばらく説明してあげられましたが、彼らが粗野で道理をわきまえずずっと横車を押すのを見て、師父は立ち上がって司会者にいとまを告げ、それらの人らと論争しませんでした。私にはそれらの人たちが嫉妬心を起こして、言いがかりをつけてきたのがわかりました。 

 師父は私達といっしょにいる時は、物語を語る方法でも説法してくださいました。94年8月19日師父は延吉に行かれ講習会をされることになり、私達数人の学習者は長春空港まで見送りに行きました、飛行機の待合室で待っている時、師父は私達に師父が経験したある事を語ってくださいました。私は師父が私達にある次元の法を説いてくださっていると思いました。

 76年に、師父がまだ部隊に勤務していた頃の、9月9日の夜、師父は当番をされていました。その当時の中国人はみんな知っていますがその日は特別な日で、すべての娯楽活動は禁止され、都市はとても静かでした、その時、突然、師父の銃が暴発しました。私達はここまで聞いて師父のため手に汗を握りました、私達は中国共産党の凶悪かつ残虐さを知っていたからでした。その時私は焦ってどうすればいいですかと急いで聞きました。師父は正面から私に答えず「つまりそれは恥さらしをさせたのです」とおっしゃいました。このお話を私はしっかり覚えておきました。私はそのお話の内包がとても大きいと感じました。だから私はその後、ある人に大勢の人の前でののしられ、侮辱された時も、私は辛くなく、私の心は動じなかったのです。 

 私はいつも、自分はとても幸せだと深く感じています、法輪功を修煉してから、これまで1粒の薬を飲んだこともありません、私は今年72歳で、3回も累計860日間、監獄で邪悪の残酷な迫害を受けましたが、師父の慈悲の加護の下で、身体は依然健康です。心から慈悲深く偉大な師父に感謝を申し上げます。合十。 

 また、あるでき事は、長春の人々に大きな影響を与えました、時は93年12月、当時、師父は北京で東方健康博覧会に参加されていました。師父の家のある棟に火災が発生しました。その棟は4階の建物で、師父の家は4階の中間に位置していました、火事は隣の家で発生して師父の家の両側の家はみんな焼けてしまいましたが、中間に位置した師父の家は何の被害も受けずに無事でした。火事を消す時、家のものが水にぬれただけでした。火事を消す人が師父の部屋に入った時、本棚の上に仏の塑像があり、壁に菩薩の肖像画(それはみんな師父が自作されたものでした)があるのを見ました。事後彼は、あの家では仏、菩薩を供えており、仏様の加護があったから、火災に見舞われなかったと至る所で言いました。今考えてみればそれは間違いなく旧勢力の邪魔でした。しかし、それは師父によって排除されたのでした。 

 まさに「ありとあらゆる辛苦の十五秋、正法の苦しみと憂いは誰が知るか、ただ衆生を救うためのだけに 洪微を出ななければ決してやめない」でありました(『洪吟』(二)・難」)師父、本当にお疲れ様でございました。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/1/31/119739.html