日本明慧


二言三言:交流に関する感想

 文/台湾の法輪功学習者

 【明慧ネット2006年3月6日】ある日、私が数人の修煉者に自分の感想を話している途中で、ある修煉者が私に対して、如何に考えるべきかと提案したが、私は話が終わっていないのに、どうして口を挟むのかという思いがあり、議論が始まってしまった。彼は、私があまりにも主観的だと指摘した。そのとき、雰囲気は少し緊張気味であった。そばにいた修煉者は「こんなことは、よく見たことがあるので、あなたたち二人の話の進め方さえ想像できるよ」と言って、交流はそれで終わってしまった。

 その後、私は、自分にも足りないところがあり、他人が私の話の途中に口を挟んだため、急いで弁解するのはいけないと思った。互いに物事に対しての認識が違った場合、言葉で考えの微妙なところをすぐ相手に理解させることができず、急いで説明したり、弁解したりすべきでもない。なぜならば、これは実行できるはずの一種の「忍」なのである。それにトラブルに遭った際、内へ向かって探す(外へ向かって探すことではない)ことは、法輪大法の修煉者に対しての基本的な要求である。

 そのほか、私たち大法弟子は、絶え間なく法の中で鍛えられており、心性の向上が非常に速いときもよくあると、私は気がついた。現在、その修煉者には、この執着があり、あの足りない点があるが、次に会ったとき、彼は多分この執着心をすでに取り除いてしまっているかも知れないので、我々はその修煉者に対しての前のイメージを拭い去るべきである。交流はいつも新たなスタートと思うべきである。

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2006/3/6/122187.html