日本明慧


意気消沈から精進の道へ

 文/台湾大法弟子

 【明慧ネット2006年3月6日】尊敬なる師父、各同修、こんにちは、今日はみなさんと最新の修煉体験について交流したいと思います。不足するところがあれば、みなさんの慈悲なる指摘をお願いします。

 私はずっと自分の毎日が充実していると思っていましたが、明慧ネット1月17日に掲載されたある大陸大法弟子の修煉体験の中で彼女の毎日の時間の配分をみると、精進している弟子との差がはっきりみえました。

 「朝4時から7時までに5セットの煉功を行い、それぞれの時間に発正念を行い、その間の25分は『洪吟』、『洪吟(二)』及び『論語』を暗記します。7時の発正念を終えて、顔を洗って、朝食を作ります。食事中もう一度暗記しなおして、7時半から法を学びます。まず新経文を学び、昼12時までさらに『転法輪』を3講学びます。午後資料の印刷と組み立てを行います。夜になって外出して真相を説明し、戻ってから明慧週刊を読みます」。

 * 法理から意気消沈と精進を見る

 『最後になればなるほど、精進すべき』の中で「数少ない一部の学習者、ひいては古い学習者もこの時期、多かれ少なかれ意気消沈の状態に陥り、精進の意志を緩めてしまい」と指摘されました、過去の1年を振り返って、自分が何回もこのような意気消沈の状態に陥り、一部ほかの学習者もずっとこの状態にいてなかなか抜け出せないと感じました。実は師父が『2003年アトランタ法会での説法』でこう厳しく指摘されました。「法の勉強においてついて来られなくなった大法弟子だけが、この間に精進することができず、意気消沈してしまい、ひいては時間の大切さを忘れ、時間を無駄にせず大法弟子として行うべきことを行っていません」。明らかに、意気消沈の状態を抜け出すには、時間を大切に法を学ぶしかありません。師父がさらに『2005年カナダ法会での説法』でこう指摘されています。「大法弟子として、自分の責任を果たす中で、この全てを正しく行うことができれば、これはすなわち精進です」。

 恥ずかしいことに、1996年の『法輪大法義解』の『再版の話』の中で、このような一言がありました「大法の弟子は法を師と仰ぎ,邪魔を排除し,堅実に修めるように希望する,これが精進である」。また1999年の『ニュージーランドでの説法』でこういうのがありました。「絶えず自らを向上させ絶えず本を読むことが精進なのです」。10数年間、各地での説法で、師父が常にわれわれに法を学ぶ大切さを指摘してこられました、私はあまり重要視していなくて、本当に恥ずかしい限りです。

 我々は法輪功を修煉しています。『転法輪』の第1講ですでに法輪が「彼は自動的に運行し、回転できるのです」「法輪(ファルン)がたえず回転していて、それを止めることはできないからです」第3講の中で正法修煉のエネルギー場は「それはこの場が一切の間違った状態を正すことができるからです」といっています。私の認識として、意気消沈は一種の間違った状態で、法を正す時期の大法弟子の身に起きるべきではありません、もし我々がしっかり法を学び、法に同化すれば、法輪のその機制が自動的に意気消沈という間違った状態を修正することができます。

 私個人として、意気消沈は以下のようなところで現れています。

 その1.法を学ぶことに厳粛に対することができない

 1999年に私は法を得ました、大法の広くて深い内包に惹かれ、私は努力して法を学び、まじめに煉功しました。師父の教えに従い、よい人になることから始め、修煉の道を歩みました。私は座禅しはじめたとき、長く続けられませんでした。時間を延ばすために、法を学ぶとき、ビデオをみるとき、私はいつも足を組みました。態度もまじめで敬虔で、あたかも師父が私の前で法を説いているようで、まじめに聞いていました。しかし、この2年間は状況がだんだん悪くなりました。私が維持しているのは法を学ぶ形式で、本を見るときも足を組まなくなり、私の法に対する敬虔な心が薄くなったように見えました。毎日多くの大法の仕事に忙しく、本を読むときも元気がありませんでした。法を学ぶ心の態度が散漫になりました。それでどうして法の内包が現れるのでしょうか?

 ちょっと前まで法を学ぶとき、ボトルネック状態になりました。内に振り返ってみると、落ち着いて法を学べない原因は、修煉が形式的になっていて、内包を求める心が混じっていて、本も見慣れたと自慢して、師父のどこの説法がどのページにあるのかも知っていて、常人の心で大法をみたためだと分かりました。いま、私が法を学ぶとき、自分が「初心に戻る」ことに注意しています。そして本を読むとき、本当にいきいきして、多くの発見があり心が充実しています。

 その2、安逸を求める心と煉功をおろそかにしたこと

 煉功を始めたころ、多くの苦労がありました、最初の数カ月せいぜい30〜40分しか続けられませんでした。私は決心して、紐で足を固定して、強制的に一時間続けました。最初の3日は死ぬほど痛かったのですが、徐々にいい気持ちになって、丸々1年過ぎてから初めて紐をつけなくなりました。ある陰暦の新年のとき、私は試しに1時間半に挑戦しました、最後の最後が痛くて、痛くて、苦しみの中で私が目をあけ、きれいな月、いっぱいの星空を見上げて、心の中で、これしきの苦しみも耐えられなくて、なにが修煉だと思いました。「忍びがたきは忍びうる、おこないがたきもおこないうる」(『転法輪』)によって、私は我慢して来られました。数年前まで私は毎日5セットの煉功を行い、この1,2年間は進歩ばかりか後退しました。

 よく自分が煉功点にいかないための言い訳として、前日真相を説明して遅くなったとして徐々に、朝、煉功点にいかなくなりました。実際それは私が大法をもって自分の安逸を求める心を隠蔽しているに過ぎません。毎日忙しく、しかし、煉功が足りないため、精神状態が前より劣りました。真相ばかり説明して、煉功しなければ、『転法輪』の中で辟穀の段でいわれた「ただ働くだけでご飯を食べないのです。そのようなことがあってよいものでしょうか?」と同じではないでしょうか?

 あるとき、法を勉強する会で、ある同修の話によると、彼らの煉功点にある80何歳のお爺さんが、自分の息子の葬儀のその数日間も、毎日外に出て煉功したと聞きました。私は非常に恥ずかしいと自分の欠点をはっきり感じました。そのお爺さんは、修煉への決心、自分に対する厳しい要求、修煉に責任を負うことが風貌として現れていました。なるべく早く補うため、いま私は毎日煉功点にでかけて煉功して、精神も体も大きく改善されました。

 その3、発正念の時間を過ぎたこと及び真剣に発正念していないこと

 前は、私は毎日4回の発正念の時間を過ぎたことはほとんどありませんでした、去年からたまたま朝寝過ごして煉功時間をなくなって、また発正念する時間も過ぎました。さらに悪いことに、これを繰り返し、『転法輪』の中で色魔の段でいわれたように「煉功者としての自覚を持っていれば、その瞬間に思い出すことができ、自らを抑制できるわけですが、そうすればその関は通過できるのです。もし、一回目に乗り越えられなければ、二回目は自分を制御することが難しくなります」。発正念を重要視しなかった結果として、全世界の大法弟子が悪を取り除いている肝心なとき、私は繰り返し欠席しました。

 それ以外、私が長時間パソコンの前で大法の仕事や真相を説明して、発正念の時間がきたら、ときに最初の5分間のとき、よく自分の手持ちの仕事をおいておくことができずにいました。師父は『2005年サンフランシスコでの説法』の中でこう言われました「1999年7月20日以降と以前、この二つの段階の状態はまったく違います。ですから、三つのことを全部しっかり行うことが修煉であり、三つのことの中の一つだけを行っているのは修煉ではありません。つまりこういうことです。一つのことだけを行えば、向上することもできません。ですから、大法弟子は必ずしっかりと行うべきです」。私の体験として、環境を制御することが非常に重要で、パソコンの前、電話或は携帯の隣で法を学んだり発正念をしないほうがいい、そのことで意念が集中できないことを防ぐことができます。もちろん、発正念の前に法を学び、心の状態を調整できればなおよいのです。

 その4、読書会或は交流会に参加したくないこと

 数年前、私は積極的にいろんな読書会に参加し、心を打ち明けて同修と交流し、それを楽しみにしていました。徐々に私は参加したくなくなりました。読書会に行きたいときは、ただ単純に「いきたい」ですし、行かないときの言い訳はもういろいろあります。大雨や、遠いから時間がないことや、収穫が少ない、人が少ないなど、報告が多く交流が少ないなど、私はいつもいろんな言い訳で自分が読書会にいきたくない執着心を隠蔽しました。もっと深く掘ってみると、この執着は、自分にとって厳しい指摘、批評を聞きたくない、打ち明けて自分の欠点に直面したくない、同修がなかなか改善できないことに対する失望、具体的な仕事に対する無力感などなどから来ています、その結果として、自分の修煉環境を大切にしなくなって、自分を閉じ込めてしまいます。

 長く学習者と交流しなくなって、しかし依然多くの大法の仕事を負担している私は、徐々に同修との間の隔りが大きくなり、疑心が信頼に取って代わり、批判が関心より多くなって、目の中は他人の欠点ばかりで、自分の意見にこだわり他人に妥協しなくなります。これが積もって慣れてしまうと、協力がもはや順調ではなくなります。道が誤っても、間違っていてもそれを指摘する人がいなくなり、全体との距離が徐々に大きくなり、自分の心性が落ちても自覚がありませんでした。幸い私が早くこれを意識して、全体から遠く離れませんでした。

 「意気消沈」が長期になれば、麻痺してしまいます。どうやって精進でき、正しい修煉状態に戻るのでしょうか?

 その1、根本は法を学ぶこと、心を修めること

 静座するとき、足を組めばよいのではなく、心が落ち着くことを要求すると同じく、大法の仕事も心性の修煉です、ただ仕事をするのではありません。大法を証明する活動項目が多く、みんな多くのことを分担しています。仕事の過程はいたるところで修煉者の心性への試練があり、矛盾にあうとき自分を見つめなおすことができるのか?自分の意見をおいておき、同修の意見に耳を傾けることができますか?本当に慈悲心で、衆生を済度することを念頭においていますか?6年間私は多くの大法の仕事を行いました、しかし、もっと考えてみると、心性の向上が大きくありませんでした、仕事は多くやったが、修煉が少なかった、大法の要求にははるかに及びませんでした。『米国フロリダ州での説法』で「修煉者の考えが法から離れれば、邪悪は付け入ってきます」。『圓満成就に向かって』の中で師父がこう指摘されました。「旧い邪悪な勢力にあなたたちの考えの隙に乗じられぬようにするための唯一の方法は、しっかりと法を学ぶことである」。

 その2、堅持と恒心

 どんなことも興味だけなら、せいぜい5分間の熱で、それ以降は中途半端になり、意気消沈の温床になります。私が『洪吟』の中の『真修』の経文の「時々修心性」を読んだとき、まずその「時々」が目に入ってきました。(訳者注:中国語の「時々」は日本語の「常に」の意味)。『転法輪』の中の「たえず自分の執着心を取りのぞく、という過程こそが、人間の修煉の過程のすべてなのです」という言葉は、私は「たえず」がみえました。「自らを真の修煉者と自覚すれば」の中の「真の」に気付きました。「常に」、「たえず」、「真の」これが精進の基本要求と悟りました。私に修煉は堅持と恒心が重要だと注意してきました。

 その3、同修の関心と励まし

 私たちはいつも「同修」「同修」と呼んでいます。その意味は一緒に修煉することだと思います。多くの学習者が病業に悩まされたとき、意気消沈のとき、周りの同修がタイムリーに助けなかったことも一つの原因です。私が同修の病業の問題に関しては法理から分析できても、善なる心が足りませんでした、相手のために思う慈悲を表していませんでした、ただ対岸の火事のような冷ややかでした。実際に人が助けを必要とするとき、周りの同修の積極的な励ましや正念での支持が、その意気消沈の状態を軽減でき、早くその苦しい立場から脱出できます。大法弟子は一体で、それぞれの大法弟子は一つの粒子のようで、一つの粒子に漏れがあって、純粋ではなければ、全体の力を削ぐことになります、粒子間は互い円容し、互いに補う、これこそ全体の金剛不壊に繋ぎます。

 最後に師父の『2005年サンフランシスコでの説法』の一段でみなさんと互いに励まし合います。

 「実は修煉者として、皆さんはいかなる環境に置かれても、精進しなくてはいけません。環境が緩和されればされるほど、実は皆さんに対する試練は厳しくなります。環境がどのように変化しても、修煉の条件、修煉の境地に対する要求は永遠に変わることはありません。ですから、皆さんは緩んではいけません」。

 師父ありがとうございました、同修たち、ありがとうございました。

 (2006年アメリカ西部国際交流会発言原稿)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/6/122149.html