日本明慧


「明慧ネット」を見るときに心を正すべき

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年2月10日】私は「明慧ネット」をみるのが好きです。しかし自分が明慧をみるときの心の状態が正しくないのに気づきました。とくに最初のコラムの「迫害事実」に対する心の状態がよくありませんでした。もし多くの大法弟子がそのように接しているのであれば、これは非常に厳重で恐ろしいことです。したがって私は書き下ろしてみんなの注意を喚起したいと思います。

 私はもともと「明慧ネット」を見るとき、「迫害事実」についてはタイトルを眺めて、中の文章をまったく読みませんでした。タイトルで大法弟子が受けた迫害をみて、眉をひそめて、心痛みましたが、深くは考えず、興味がありませんでした。あたかも自分に関係ないことのようです(自分の地区の同修が迫害されてはじめて警戒します)。思想の奥で迫害についてどうしようもない心、自然の成り行き任せの心、自分に関係ないと思う心、見慣れて麻痺した心がありました。実質上、これが迫害を黙認する心です!もしすべての大法弟子がこのような心をもっていればどんなに恐ろしいことでしょう!なぜ法を正す形勢がここまできても、邪悪がそれでも大法弟子をあのように迫害していても、まったく気にしていないと私はようやくわかりました。師父が「2002年米国フィラデルフィア法会での説法」の中で次のようにおっしゃいました。「実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。」

 「明慧ネット」に掲載された迫害の真相を伝える文章をよくよく読むと、本当に心が痛みます!人間界で、この白日の下、堂々たる中国大陸で、人権を重んじる現代にこんなに多くの人が非人的な虐待と迫害をうけています!一人の正義感のある常人がこのような事実をみれば表にでて正義の話をして、迫害に反対するはずです!まして自分の同修、同門弟子がそこで受難しています!師父がおっしゃったように「大法弟子はひとつの全体です」、「彼のことはあなたのこと、あなたのことは彼のことです」。「つまり、大法弟子の大部分はこれらの天体にしたがって来たのであって、お互いに縁を結びましたが、一旦圓満成就して戻ったら、お互いに会おうと思っても、ほぼ不可能なことです。ですから、この縁を大事にすべきです。しかも、皆さんの縁はお互いに交叉しており、各生と各世に異なる縁を結びました。これは簡単にできることではありません。ですから、何かをする時に協力しあうべきです。それぞれの大法弟子のことは皆さんのことです。」邪悪が彼らを迫害していることがつまり、大法へ、師父へ、われわれそれぞれへの迫害ではありませんか?われわれに関係ないと言えますか?それでも私が家で寝て、食べて、安逸な生活をしており、仕事や生活の些細なことで常人の一言に対して心が動かされています。

 同修の迫害についてそんなに麻痺していて、それでも大法弟子と言えるでしょうか?それでも大覚者に成就しますか?厳しくいうと、常人の良知もなく、善なる念もなく、私ははずかしく感じ、自分が結構よく修めているとは思わなくなりました。私は最初から自分を見直して、自分をしっかり修めています。多くの同修が不法に労働教養所や監獄に監禁されており、人身自由や正常な生活をなくしています、師父の経文を見ることもできません。「明慧ネット」も見れず、大法のニュースを知ることもできないのです。どんなにつらいことでしょう!われわれ家にいる同修はもっと法を学び、自分の正念を強め、我々はもっと精進して、もっと迫害に反対し、もっと真相を説明して、彼らへの迫害を軽減させ、もっと早く自由になって、我々がもっと多く正念を発して、旧勢力のこの安排や邪悪の迫害を否定し、一人ひとりの同修の迫害に注目し、自分の力をすべて出して、この起こるべきでない迫害を早く終わらせるべきです。

 我々は大法弟子です。我々は誰に期待するのですか?師父は我々にすべての能力を与えてくれました。あの三つのことをすべてを含んでいます。旧勢力を徹底的に否定できます。もしこの問題に関して我々の心が正しくなければ、邪悪に迫害する口実を与えます。彼らはこういうでしょう。「ほらみて、我々が彼らを迫害しても、多くの大法弟子が気にしていないようだ。しかも常人がなぜ関心をもたないかと文句をいっているようだ。しかも外国の人に迫害に反対し、法輪功を支持するよう期待しているよ」。家にいる同修たちは本当に自分をもっと真剣に考えてください。我々が安全のため、力がないなどの口実で大法弟子なすべきことをやらなくていいのですか?法を学ぶことが安全ではないといえますか?発正念が安全でないといえますか?怠けと恐れる心のために口実をつけているのです。大法が広く伝わるこの時期、師父が法を正すこの時期に生まれて、法を学べないあるいは大法の本をもって法を学ばないことはいかに残念なことでしょう。人に大法を学ぶことを阻害している人の罪がいかに重いか自明です。

 「明慧ネット」に掲載されている同修が受けた虐待や苦難を思うと、私は自分が苦しいとか言わなくなりました、怠けられなくなりました。煉功の時の苦しみはなんのこともなくなりました。それから、私が明慧をあけるとき、心が正直になり、心を正しくもち、まず、最初の「迫害事実」を読んで、すべての文を真剣に読んで、発正念で同修を迫害している邪悪を取り除き、悪人に悪報をうけるよう、さらに同修に加持します。これも迫害に反対する方式のひとつと思います。みんなが迫害されている同修にもっと関心をもって、これがきっと大きな威力をもつと思います。さらに迫害事実を読んで、邪悪の悪らつさを知り、同修の厳しい状況を知り、家にいる同修にとってひとつの催促で、自分が安逸に走らないで、気を緩めず、迫害の教訓を吸い取って、同じ回り道を歩まないで、安全に気をつけるなどがあります。

 師父は我々が「大法弟子よ、皆さんは濁世に輝く金の光であり、世の人々の希望であり、師に手伝う大法徒であり、未来の法王なのです。」(「祝辞」)と呼ばれています。しかも我々は世の中の人にとって「唯一の希望」なのです。まず我々大法弟子がこの迫害をはっきりと認識し、迫害に反対し、力を合わせてこの迫害を終わらせ、常人に期待したり、自然の変化に期待したりしてはいけません。

 昔、私が「明慧ネット」を開くとき、まず師父の新しい経文があるかどうかを見て、自分が投稿した文章が掲載されたかどうかをみて、自分好みの文章があるかどうか?いいニュースがあるかどうかをみていました。師父の新経文がなく、自分の投稿文が発表されていなくて、あるいはいいニュースがないとき、失望したようでした。たしかに、大法弟子として、師父の経文や師父に関するニュースをみたいのは間違いではありません。しかし見られないときに失望するという心はよくありません。この中に「好奇心、新しいものを求める心」が含んでいます、心が穏やかではありません。長く師父のニュースがなければ、精進しなくなるのでしょうか?師父のために修煉しているのでしょうか?修煉の重点は自分が師父のいうとおりにいかに行うかです、外に向いて求めるのではありません。新しい経文をみて、自分は正しく悟ったのでしょうか?師父が言われたことを私たちはちゃんと行ったのでしょうか?私が「精進要旨・堅定」の中の師父の話を思い出しました。「師在りて信心十足、師無くば修する興無し、師が為に修す、興の為に来るに似る、此れ中士の一大弊なり。釈迦、イエス、老子、孔子去りて二千年余、其の弟子嘗て師無くして修し得ずと思わず。修は自身の事、代われる人無し、師と為る者は表面に只其の法理を教える。心を修め欲を断ち、明慧にして惑わざるは自ら負うべし。興が為来たるは、心必ず堅きこと無く、世俗に入りて必ずその本を忘れるなり。その念を固守せざれば、一生得るもの無し。何時再び機縁成るや知らず、難なり!」

 自分の投稿の発表を待ち望んでいることは名を求めることです。もし発表されれば、これは大法を証明するために必要で、同修の向上や衆生を済度するために必要であって、もし発表されなければ、これは自分の認識に問題があり、あるいは自分の認識が同修の中で代表的なものではないこととして、平然として対処すればいいのです。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/2/10/120503.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/3/9/70643.html