日本明慧


私は深く隠れていた根本的な執着を見つけた

 文/大陸の大法弟子

【明慧ネット2006年1月25日】私は96年に法を得ました。迫害の中で師父についてきてもう10年になります。しかし、今になってやっと根本的な執着を見つけました。師父の慈悲の済度に会わせる顔がありません。なかなか悟らないため、師父は何度も悟るように教えてくださり、もうすでに法を証明する最後の段階に入っているのに、依然として悟らず、根本的な執着を抱いて放していませんでした。真の大法弟子とは言えませんでしたが、ただ師父を信じ、法を信じる心、向上しようという意欲があったので、師父はずっと慈悲に守ってくださり、絶えず、向上させ、根本的な執着を見つけるように按排してくださいました。

 私は『転法輪』を暗記する中で、師父が慈悲に教えてくださったお陰で、この深く隠れている根本的な執着を見つけました。夜、夢の中で法を暗記して、内容をはっきり覚えていないのですが、大体の意味は、如何なる難に遭っても堅持しなければならない、正念が強ければ乗り越えることができます。目覚めて、口の中でまた暗記していました、「また、道が一尺高ければ、魔は一高くなる、と言う人がいます。それは常人の邪説で、魔は永遠に道より高くなることはありえないのです」(『転法輪』)。

 きっと魔が私を迫害しようとしており、法を実証し、衆生をすくい済度するこの肝心な時に、何らかの大きい魔難がないはずはありません。三つの事がよく出来ていなくても、頑張ってやればよい、邪悪に迫害させるわけにはいきません。私はすぐに師父の助けを求め、発正念して、旧勢力の按排と迫害を否定し、師父が按排してくださった道しか歩まないように願いを込めました。正念を発し終わって、考え始めました。一体何の魔難が発生するのでしょうか、邪悪に連行され、肉親の情、生死の病業の関か、きっと何か漏れがあって、何か大きな執着を放下していないからで、でなければ邪悪は迫害する勇気はありません。

真面目に自分を分析し始めました。

 常人の時、人生に求めるものはなく、名利心は浅かったし、人に善で接し、自分が損しても人に譲りました。でも何を一番重視していたのでしょう。そうです、命です!命を一番大切にしていて、体に一番関心を持っていました。小さい時から体が弱く、よく病気にかかって苦しみ、死の危険に直面したこともありました。死を恐れる心が生じました。師父は『佛性』の中で次のようにおっしゃいました。

 「ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、ないしその人の喜怒哀楽を左右するのです。これは後天的に形成されたのです。時間がたつにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます」。 私の「命を大切にする」観念は、すでに性格を形成しています。法輪大法を修煉する前、一番の趣味は如何に健康に気をつけるかで、各種の薬が引き出しにいっぱいで、各種の新聞雑誌の健康に関する知識を集めた厚いノートが一冊あり、気功も何種類もやりました。私はこういう状況下で大法の門に入りました。

 最初の時は確かに何の目的もなく、ただこの功法がよいと感じましたが、今突然分かって、この「よい」ですら私の根本的な執着「命を大切する」に溶け込んでいるではありませんか。なぜ、よいのでしょか、佛に成就できると永遠に命を保てます。それは人生で求めていたものではありませんか。その「命を大切する」人間の観念からでた「よい」ではないでしょうか。その考えが自分のものになってしまっているので、その一念が自然であるように見えるのですが、今更ながら、大法に入るきっかけは、やはり目的を持っていたことが分かりました。

 かつて師父は『円満に向かう』を発表されたとき、私は繰り返し読み、覚え、根本的な執着に対して認識が深まり、一度自分の根本的な執着を探してみたのですが、見つからず、大法はよいから入ってきたので、目的はなかったと思いました。それから学法を通じて、『明慧週刊』の同修の交流文章を読んで、旧宇宙は「私我のため」と認識しましたが、でもやはり根本的な執着は見つかりませんでした。

 今回の法を暗記することで、師父が教えてくださいました。私は真に法を暗記することのよさを感じ、入静できるし、法の中に溶け込むことができる、もっと速く向上できます。

 根本的な執着が見つかって、心がぱっと開け、たくさんのことが分かりました。かつて師父は何回も悟りを教えてくださったのに分からなかったことが、今全部分かりました。私よく夢の中で、師父に会って、とても感激、とてもうれしくて、涙を流しながら、師尊に対する思念と感激の気持ちを述べました。しかし、毎回よく見ると師父ではありませんでした。当時私はまだはっきり悟らず、自分はまた根本的な執着を放下していないことが分からず、自分に漏れがあるから旧勢力にしっかり抑えられて、旧勢力の按排した道を歩んでいました。

 当時、自分に漏れと執着があることが分かり、相変わらず個人の円満成就を第一位に置いていました。私は毎回の発正念で旧勢力の按排を認めません、私は大法弟子であり、師父が按排してくださった道以外は全部要りませんという念を加えました。しかし真面目に自分を探さず、自分の根本的な執着を放下したか否かも考えませんでした。師父はまた一度、夢の中で私にテストをされましたが、人が行ったり来たりして環境がとても乱れ、いつも私にこれをやって欲しい、あれをやって欲しい人がいて、私は坐ってテストに答える時間がありませんでした。たくさん問題のあるテスト用紙に、私は一つしか答えられず、もうすぐ時間がなくなりそうで、心の中でとても焦って、目が覚めました。でもやはり悟らず、正念が足りないことだけを悟りました。心性から探すことが分かりませんでした。根本的な執着を掘り出してから、眼帯を外したように、自分が歩んできた修煉の道がはっきり見えるようになりました。

 毎回北京、天安門へ多くの同修はみな正々堂々と行って、正々堂々と帰り、「法輪大法が素晴らしい」と叫び、横断幕も広げました。私は毎回捕まえられました。原因は「命を大切にしている」ことにあるのではないでしょうか。邪悪の巣で、多くの大法弟子の正しい念と正しい行いが邪悪をぞっとさせます。正念が強い弟子と比べて私は肝心のところで道が分からなくなりました。

 この迫害は人が人を迫害していると見なし、人間の方法で扱い、毎回邪悪に妥協してしまいました。当時、自分が一歩下がったら、邪悪は一歩を進め、肝心の時生死を放下できず、人間の考えから抜け出せませんでした。私は必死に抵抗して、最低限の防御線を守って、決して師父と大法に申し訳ないことを言いませんでした。その時私は自分には形神全滅の執着があるとはっきり見え、根元は「命を大切にする」執着から由来していることが、旧勢力にも見えました。あなたは形神全滅を恐れているのではないか、あなたは師父を尊敬していない、大法を尊敬しないことを言わないではなかろうか、邪悟させるなら言うでしょう、今更なぜ自分が邪悟の道を歩んだのかを分かりました。

 私はまた、一回生死の病業の関に遭遇しました。急性の肝炎の病状で、高熱が続き、そのため知覚を失って全身黄色になり、下着までも黄色に染まり、大出血し真の生死の関でした。そのとき内心でとても分かっていて、絶えず正念を強めましたが、自分が死に直面する時、平然と動じないのではなく、かえってびくびくしました。よかったのは生と死の肝心な時に至った時に、私は死を忘れて、今生に真に法を得られず、円満成就できないことを悲しんでいました。まさに大法を一番に考える正念で私はこの関を乗り越えることが出来ました。この一念が出た瞬間、何の病状もなくなり、ただ眠りたいだけでした。目覚めたとき、体温がほぼ正常でした。その時大法の不思議を覚え、更に師父と大法に対する正信の念が増しました。

 今振り返ってみると、実は私は真に生と死を放下できませんでした。ただ違う次元で自分に対する要求に符号しただけでした。今はっきりと見えてきて、まさに「命を大切にする」この根本的な執着を認識できず、この大きな漏れがあったので、邪悪に隙に乗じられました。円満するには、生死を放下できなくていけません。師父は『新年の挨拶』の中で、「皆さんは神の道を歩んでいる人であり、一つ一つの執着はみな障碍なのです」とおっしゃいました。

 自分は、生死にたいする大きな根本的な執着を放下していなかったから、障害もそれほど大きかったのです。執着のため、旧勢力に抑えられ、旧勢力の按排した道を歩んでしまい、法を実証し、衆生を救い済度することに影響をもたらしただけではなく、家族にも魔難をもたらして、かれらに苦痛を与えただけではなく、大法を罵る言葉をたくさん言って、大きな罪を犯してしまいました。

 私は真に分かりました。執着を放下しないと、旧勢力に抑えられてしまい、旧勢力の按排した道を歩んでしまいます。歩んできた道をはっきり見て、絶対に再び自分を高め、円満成就を第一位に置かず、如何なる時でも大法と衆生を第一位に置きます。必ず師父の要求に従い、三つの事をよく行い、自分の道をよく歩むようにします。師父は『シカゴ市での説法』の中でこうおっしゃいました。「この瞬間は千金、万金に値します。この道をしっかり歩むことは最も素晴らしいことです」。

 私と同じ執着のある同修に戒めとして希望します。あなたが大法へ入る最初の一念から、自分の根本的な執着を探してみてください。ただ「返本帰真」の純粋の一念だったでしょうか、或いは大法はよいと思うだけだったでしょうか。この「よい」の中に原因があったでしょうか。この「原因」はまさに目的であり、あなたの執着であるかもしれません。

 不適当なところ、ご指摘ください。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/1/25/119388.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/2/16/70004.html