日本明慧


形式的に行わない

 文/大陸大法小弟子

 【明慧ネット2006年1月21日】毎回師父の新経文を読んで、異なる感銘がある。同時に自分の不足している面を意識することができる。師父は新経文の『成熟』の中で次のように書かれた。「ネット法会に掲載された中国大陸の大法弟子の文章を読んでから、それぞれの文章は常人の心で書かれたものではなくなり、任務を完遂するための『党八股』のような事実から乖離した偽りの書き方と内容がなくなり、功績を吹聴するような、『言わなければ誰が知るのか』という人心もなくなり、ほとんど党文化の思考様式がなくなったと感じました。もう一つ感じたのは、皆さんが修煉の中で成熟してきたことです」。これは、私は揺り動かして、自分のもう一つの面を思い付いた。日常の学習、仕事から話し出したいと思う。

 文章を書くことについて話すと、私はとても読みづらいセンテンス、非常に華麗な言葉を使って、工夫を凝らし、とても美しい雰囲気を描写することが好きで、自分ではよく書けていると思っていた。自分がよく書いていることを誇張する人はいるが、一部の人は自分がわかりにくいことを書いて、しかも中心がなく、ただ読んだら非常に華麗だが、内容がない。私は改めて考えた、このような文章は恐らく以前、流行小説に夢中になった時学んだもので、文字を弄び、実際にある種の文化を破壊するもので、ただ表面を重んじるだけで、内容を重んじていない。それはあのような変異の文化に順応したのではないか?

 高校の授業はとても重く、学習内容は多く、宿題も多いので、私はいつも宿題を完成するために宿題を書いたが、学習効果の検査・測定として、真剣に、しっかりするのではない。間違えた宿題も深く探究しないで、繰り返し間違えることを招いてしまった。時間がないので復習できないと言い訳し、試験がうまくいかないのは当たり前だと思った。それは大法弟子の行為だろうか?

 また、私は勤勉だと言われた。しかし私自身はよく知っている。確かに多くの時間を使って勉強していたが、効率はとても悪くて、効果が悪く、決めた計画も完成することができなかった。その事は長い間、私を悩ませていた。さらに、師父はまた私が要らないのか、私はどうしてそんなにひどいのかと思っていた。今考えてみると、実は法の立場で問題を見たのではなく、日常のすべては偶然と思って、内に向かって探さなかった。私は真剣に宿題を完成せず、形式的に行って年月が経った。もちろん成績が上がらないので、かえって意気消沈した。最初は自分の成績・試験に執着したが、その執着心を排除した後に、また駄目だと発見した。私の「真」は、旧勢力の按排を否定していない、それは大法弟子なのだろうか。任務を完成する式の党八股、本当でない偽りのプログラム、その根強い観念は私を束縛している。それを思い付いて、私ははっと悟った。もとは、これは私を根本的に、長年悩ました執着だ。

 学法・発正念も2年堅持していたが、効果は良い時と悪い時があった。やはり多すぎる心があって、落ち着いてない。私は本当にしっかりとすることがない。任務を完成するための心があるからだ。師父は全面的に旧勢力の按排を否定すると言ったが、私はしっかりとしていない。

 この前、明慧ネットの文章を読んだ。先生の言われた「間隔」に言及して、彼の理解を書いていたが、私はとても大きい啓発を受けた。そうだ、間隔は実は私達の自分の執着だが、その執着が再び存在せず、私達が法の中に溶けこむ時、間隔もなくなった。その上、私はだらけていることを許さない。つまづいて転んだら、頭を回してその大きい穴を鑑賞してはならず、頭を上げて前に向かって、後悔する中で過ごさないことである。

 私の両親は、私が大法を学んだことに反対しているので、しばらくは私に対する妨害が大きかった。私は法を学ぶのが深くないため、彼らに真相をはっきり説明することができなかった。母は私の成績が普通なのは、大法のために多すぎる時間を使ったからだと言った。また私が変わっていて、俗世の食べ物を食べないし、義理も人情もなく、彼女が私のためにしたことにも関心を持たないと言った。私は沈黙して、それは偶然でない。私の思想の中で確かにいくつかのよくない考えがあって、もちろん本当の私はそのように理解したのではない。旧勢力は私の執着心を利用して、私にある種の錯覚をもたらして、大法弟子が他の人よりもっと優秀にならなければならず、いかなる間違いも許さないが、実際に大法弟子の表面で経験したのは常人の経験とほとんど一緒で、万事が順調にできるのではなく、万事が順調になったら、大法弟子にならないのである。私は自分に厳しく要求すべきで、いい加減なことでさえも許さないのだ。両親に関心を持っていないのは、やはり私が私心を取り除いていないので、うまくいかなかった。本当の大法弟子は慈悲のため、誰にも関わらず、ある種の力を感じることができる。

 また多く法を学んで、発正念をしなければならない。そして機会をよくとらえて真相を伝える。今すでに最後の時間で、私はだらけていない!すでに自分のいくつかの執着を認識したので、言ったらやり遂げなければならない。それらを取り除いて、正念をしっかり持つべきである。

 そして私と同じような問題を持っている小弟子もこの点をはっきり見分けて、形式的に行わないことである。

 以上は私の浅い悟りなので、適当でないところ、また同修の慈悲の指摘をおねがいします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/21/119132.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/2/16/70001.html