日本明慧


「名」に対する執着を放下することについて

 文/台湾の法輪功学習者

 【明慧ネット2006年3月20日】『転法輪』の中に次のような一節がある。「たとえば、ある人が職場に出勤しますと、まわりの雰囲気がどうもおかしいということに気づきます。あとになってある人が、『誰それが君のことをさんざんに言いふらしていて、上司のところに行って君の様子を告げ口して、君を鼻つまみ者にしているんだ』と教えました。まわりからは異様な目で見られています。ふつうの人なら、これを我慢できるでしょうか? こんなにひどい目にあわされて耐えられるでしょうか? やられたら絶対、やりかえしてやる。やつに後ろ盾がいるなら、こっちにも後ろ盾がいる。徹底的にやろうぜ、となりかねません。」

 修煉してから私もこのような心性に対する試練を経験してきた。そのときは、常にできるだけ煉功者の基準をもって自分を律し、修煉者の態度で問題を直視することができた。最近、また数回の矛盾に出会い、まさに本に書かれたように、その心の底まで刺激しなければ効き目がありません。今回、矛盾が来てそれを乗り越えることができず、心の中では自分に魔難をもたらした人に少し不満を感じた。あなたに対していつも親切にしてあげたのに、どうしてそこまで私を鼻つまみ者にするのか、と考えれば考えるほど怒りがこみあげてきた。数日後、私はこれ以上彼のせいにせず、心を広くし、相手を受け入れると、ふとある法理に気づいた。

 かつて、仏教の中にはこのような物語があった。ある僧侶は村の女性を妊娠させたという身に覚えのない濡れ衣を着せられたにもかかわらず、この僧侶は何の不平不満も言わずに、さまざまな屈辱の中で子どもを育てていた。後に真相が知らされたとき、彼の名誉は回復された。昔はこの物語を読んだ私は、僧侶になぜこれほどの度量があるのか、身に覚えのない濡れ衣を着せられても黙っていられるのか、理解できなかった。

 もう一度この物語を読み、私にも少し啓示を感じた。最近、自分の身に起きたことも、まさに私の「名」に対する執着を放下させるようにしているのではないか。私はずっと前からずっと「名」に執着していないと思っていたが、名誉が中傷されたとき、放下できなければ「名」に対する執着ではないだろうか。僧侶は「名」に対する執着はすでに全部放下できていた。他人から、身の覚えのないでっちあげ、そしりでも泰然としていられる。常人はどうして他人による身に覚えのない陥れを我慢できようか。特にこのような自分の名誉をそこまで落とさせるような屈辱はなおさらだ。

 このように思うと、私に魔難をもたらした人に対して、私はもはや何の恨みを感じなくなった。ただ、慈悲だけが残されていた。以上は個人の限られた次元での修煉体験にすぎず、正しくないところは同修による指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/20/123266.html