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「ロサンゼルス市での説法」を読んだ感想

 文/北京大法弟子

 【明慧ネット2006年3月29日】待ち遠しい「ロサンゼルス市での説法」がついに発表された。途中まで読んで私は心身ともにすでに強く震え、師父の洪大な慈悲を再び感じ、師父がわれわれを救い済度するために、いろいろな苦心をしてこられたことを感じた。宇宙の法を正すのは順序があり、われわれ大法弟子の修煉にも順序がある。精進しなければならず、さもなければ、師父の慈悲なる済度に申し訳ないだけでなく、われわれに期待を寄せている衆生にも、私たちの先史に発した願望にも申し訳ない。

 修煉は厳粛なものである。師父の説法を読むと、私は震わされながら恥ずかしく思った。長い間、他人の意見や指摘に対して、私の心は何か具合が悪く、気持ちがよくなくなり、あるいは苦しく感じたりして自分を弁解する。ひいては怒ったり、他人と言い争ったりして、冷静になって他人の意見が理にかなっているかどうかを見るのではなく、自分に本当に問題があるかどうかを見ることもなかった。これは修煉状態にあるべき表れではない。時に常人に真相を伝えるときに、途中で怒ったりしては、常人が理解しないのは当然だ。これが人を救い済度することだと言えるだろうか? これは明らかに人を逆方向へ押しているのではないだろうか? 師父はわれわれに、慈悲をもって接するように言われているが、私の現れには善がまったくなく、慈悲でないことは言うまでもない。実は、師父はすでにこの問題に関して説法されたが、修煉者はどんな場合も異なる意見や指摘を聞くことができる。何かに遭ったら自分の内に向けて原因や不足を探さなければならない。師父の説法は重い金槌のように私の目を覚まさせた。

 実は、大法を証明し、人を救い済度する中、われわれは自分に対してより厳しく要求し、自分をしっかりと修めていくべきである。いかなる執着心をも逃さず、あらゆる魔性を取り除き、こうして初めて大法を証明し、人を救い済度する目的を達成できる。なぜなら、執着心が少なければ少ないほど、大法を証明する中で発揮する威力が大きくなり、邪悪を取り除き、衆生を救い済度する作用を果たせるようになるからである。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/29/123891.html