日本明慧


心性の修煉に大きい事と小さい事の区別はない

 文/四川大法弟子

 【明慧ネット2006年1月27日】私は50歳過ぎで、高い学歴を持っていません。妻と97年に法を得ましたが、他の同修と接触することはあまりありませんでした。自分たちで本を読んで修煉して、心から師父と大法は世の中で一番いいと認識しています。邪悪が迫害し始めたころも、私たちは師父と大法への正信を動じませんでした。2001年、初めて外へ出て世人に真相を伝えるべきだと分かりました。しかし、多くの人心の妨害で、赤ちゃんが歩くようにゆっくりゆっくりと、師父の慈悲な保護の下で、家から、古い観念から、人間から一歩一歩歩き出しました。歩くのがとても遅かったのです。今、歩けば歩くほど信念が固まり、目覚め、智慧をもって、正しくなりました。

 自分たちが歩いた道をふり返ってみると、一歩一歩全部師父の心血が沁みこんでいます。大法弟子は本当に宇宙の中の最も幸運な生命であることを感じます。下記は自分の修煉の一部の体験です。

 長い間小さな事を重視できませんでした。例えば、よくない言葉をいう、本を読む姿勢が良くない、少し暑ければ扇風機を回す、食べ物の好き嫌い、本を読むと眠くなるなどなど。これらの事を自分に厳格に要求していませんでした。しかし、妻が注意して、私が法を勉強する前に必ず手をきれいに洗わなかったり、本を巻いたり、また気軽にどこかに置いたり、時には足を本の上に置いたり、或いは片方の足をもう片方の足に乗せて本を読んだりすると、指摘してくれます。どんな場合でも、私の口から良くない言葉が出たら、すぐに教えてくれ、ぜんぜん遠慮しません。まるで鏡のように、いつも私を照らしてくれます。夜本を読む時、眠くてたまらず、私が先に一寸寝ても、彼女は眠くなったら正座をして読む、まだだめなら冷たい水で顔を洗います。私はこれらを小さい事と思い、時々言い訳をして、常人の中で修煉しているのだから、常人の状態に符合すると言いました。以前またこういう念があり、邪悪が私たちを迫害しているので、十分な精力と体を保たなければならない、大法の事をやるにも有利だと思い、安逸の心を養って、自分を厳格に要求しないことの言い訳を見つけました。時にはこれら間違った観念は妻を迷わせてしまい、私はあまりにこれらの小さい事を重視し過ぎているのではないかと思っていました。

 妻は私より学歴が低く、私は以前彼女が法をよく理解できないのを心配しました。しかし、一年ぐらい経ったら、私たちの間はよく協調できず、認識と問題を処理する意見が統一できず、この状態は正しくないと感じましたが、根本的な原因が見つかりませんでした。ちょうどこの時、師父の新しい経文が発表され、修煉者間の差がだんだん大きくなっているといわれました。私は突然目覚め、妻との間の距離が本当に大きくなっているのを感じました。だからこそ認識上の違いが出て、考えが一致できない、意見が大きく違い、遥かに自分が後ろに落ちているのを認識しました。原因は何でしょうか。

 私は真面目に法を学び始め、法を学ぶ重要さを感じました。それまでこんなに真面目に法を勉強した事がありませんでした。以前法を勉強するとき、いつも娘のことを思い出し、専念できませんでした。妻と交流して、同時に内を探し、認識が高まったため、以前正しいと思った事が多く間違っていました。師父は『転法輪』の中に「次元が高まるたびに、振り返ってみると、自分が説いたばかりの法が全部正しくなくなる」と書いておられます。

 認識が高まっていないとき、内を探しても問題は見つからず、時々形式だけを行っているようでした。特に私たちは交流できる人数が少なく、接触する同修も多くありません。もっと多く法を勉強することが必要と感じました。同時に明慧文章をよく読むことが必要です。毎期の明慧文章も真面目に読んで、本当に益をたくさん得ています。明慧の文章を読まない同修がいますが、本当に大きな損失です。実は多くの交流文章はみな同修が命をかけて得た体験なのです。

 心を静かにして法を勉強し、真に内を探すことを通じて、自分の修煉の中に存在している問題を見つけました。

 1. 法を勉強するといっても、心に入らず、形だけ勉強しているようでは、法に対する認識を高める事ができない、認識さえないから行動はもちろんないはずです。師父は言われました。心性の高さは功の高さ、これが主な原因です。

 2. 修煉の厳粛さを認識できず、心の中では幸福を望んでいます。このように修煉すれば成就できると思っています。常人と比べ、修煉前と比べ、法で量っていません。これは法を深く勉強していない表現です。

 3. 私心が重い。私心が重ければ失いたくなくなり安逸を求める。責任感がない、根気がよくないなどです。

 4. 古い観念を突破していない、認識ができていないため、自己を固守している、恐れの心理はその一種です。後ろの三つは一つ目と関わっていて、つまり法を多く勉強すること、観念を一切なくして法を勉強します。

 5. その後、法の勉強時間を増やして、心を静めて法を勉強し、量を求めず、速度を求めず、読みながら理解して、自分と照らし合わせ、何回読んでもいつも新鮮な感じがして、親しみを感じます。

 今分かりました、修煉の道で、心性を高めるには、大きい事、小さい事に関係なく、小さいことでも、人の心性を表現できます。私の理解では、小さい事で、一つ一つ自分を厳しく要求できる人は、往々にして大きい事でもよりよく行えます。以前、小さい事でよく出来なくても構わない、大きいことさえよく行えばよいと思いましたが、実際には大きい事をよく行うのは不可能です。ただの言い訳です。小さい事も出来ないのに、大きいことはなおさらです。修煉の道は師父が按排してくださって、心性が高くないとき、このぐらいの難は耐えられるが、小さい事と思い、重視しなければ機会を逃し、時間が経つにつれ、修煉の基礎をよく築かなかったため、だんだん問題が出てきて、同修から距離が離れてしまいます。

 今後心を静めて法を勉強することに工夫をして、多く勉強し、この千金万金に値する時間をよく利用して、師父が按排してくださった大きいこと、小さい事をよりよく行い、正しい道を歩みます!

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/27/119584.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/2/9/69796.html)