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錦州労働教養所:賈精文さんは迫害され、3カ月で黒い髪が白くなった

 文/遼寧大法弟子

 【明慧ネット2006年4月3日】私は2004年7月下旬のある日、不法に錦州労働教養所に送られた。髪きりと囚人服を着ることに協力しなかったため、私はリンチされ小部屋に送られた。小部屋に入ってすぐ、私は逆に手錠を掛けられたが、安全帽をかぶり、顔は白い髭だらけで、非常にやせている人を見た。しばらく見ていると、私と一年くらい一緒にいた同修の賈精文さんだとやっとわかった。

 たった3カ月で、昔は黒い髪で、元気で、同じ年の人と比べてはるかに若くみえた同修が迫害されこのようになった。私は鉄椅子に縛られ、陳長賓ともう一人のフレッシュマンというあだ名の受刑者に暴行された。賈さんが悪人を制止しようとしたとき、悪人たちが賈さんに暴行を加えた。私は看守所で6日間断食してから、労働教養所でまたリンチされ、鉄椅子で意識を失った。

 深夜12時、私は拷問の声で目覚めた。賈さんが発正念したため、彼ら4〜5人に交代でリンチされていた。賈さんが、法輪大法がすばらしいと叫ぶと、悪人たちが布でできた縄に糞をつけて賈さんの口を塞いだ。朝4時、私は鉄椅子に24時間もいて、足が膨れ上がった。悪人は賈さんを鉄のいすに1週間も縛り、もっとも長いのは半月だったことを後になって知った。その苦痛は想像を絶するものだった。

 私は賈さんと同じ小部屋で半月を過ごした。私たちは24時間縛られ、賈さんは毎日数回殴られた。ときどき受刑者らは遊びのために、賈さんを殴った。4月から9月まで、賈さんはずっと小部屋で迫害された。その後も、悪人らはよく火であぶったり、タバコで傷つけたりした。賈さんが味わった苦痛は考えられないほどのものだった。8月に私が上に連れていかれて賈さんと別れた。しかし、賈さんと一緒にいた半月で、私は自分の目で賈さんが迫害された経過をみた。歴史は邪悪のために存在するのではなく、学習者を迫害した人はいずれ応報を受けるだろう。

 *賈精文さんの妻が述べた一家が迫害された状況

 私の夫・賈精文は2000年に労働教養所に送られ、錦州労働教養所で危うく命をなくしそうになるまで迫害された。もともと幸せな家庭がこのようにずたずたにされ、夫婦は団欒できなくなった。

 1995年我々は縁あって大法を得て、修煉を始めた。夫はタバコもお酒もやめて、博打もやめた。私は長年病気のあった身体が健康になった。1999年共産党が迫害を始めて、我々の生活も変わった。上申に行って、何回も拘留所や看守所に監禁され、罰金を受け、VCDやビデオを奪われた。夫婦そろって仕事が奪われた。1999年北京にいったとき、つかまり拘留所に監禁され、1000元も罰金を受けた。

 北京に出かけ上申したとき、錦華派出所の所長をはじめ8人が夫を殴り、夫の服を脱がせて4時間も殴った。さらにもっともくさい靴で夫の口を塞いだ。警察官の羅英涛がさらに靴ひもで夫のペニスを縛ろうとした時、夫が言った。「人道的じゃないだろう?」羅が答えた「人道?お前に教えよう。我々警官は、半分はチンピラだ」指導員の王は私を保釈し、会社に600元を強請った。

 警察官・羅英涛が我々を不法に拘留しているとき、私は戸籍を外に移した、その理由は私が大法を学んだからだ。彼らは絶えず我々に嫌がらせをしたので、2000年家を離れなければならなかった。2002年白股派出所がまた我々を看守所に送った。看守所にいたとき、凌河区安全局は私の家族に2000元を強請って私を釈放した。2004年夫は錦州労働教養所に迫害され、後に本溪教養所で迫害された。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/4/3/124334.html