日本明慧


神の道を歩む(二)

 文/大陸法輪功学習者

【明慧ネット2005年11月11日】

 二、教訓を受け入れ、自分の負うべき責任を取る

 2000年以前の1年余りの間、全体的な環境はとてもよく、みな学法を重視していた。師父が経文『圓満成就に向かって』を発表された後の暫くの間、私達は学法をとても重視していた。私達は数人が一緒に集団学法をし、2日で『転法輪』を一回通読した。私は神経の一つ一つがすべて元気になった。その時から、私はやっと法の背後の内涵を更に多く見られるようになった。私達は常に法に基づいて交流し、法を実証する中で現れる問題を直ちに発見した。全体がどうすればうまくやれるかを把握しており、表に出ている学習者も比較的多かった。環境は正されて比較的ゆったりしており、資料点も建てられ、真相を伝えることも良く出来ていた。

 しかしちょうどこの時から、不正のものも表面に現れ始めた。一部の学習者は法を実証する表面形式を重視し、北京に何回行ったとか、刑務所に何回入ったとか、どのくらいの難に耐えたとかなどを、心性を測る基準とし、すさまじい勢いで、集団で北京に行くとか、或は自ら刑務所に入った。この一年間に法を実証する中で資本ができたと思う人さえいた。甚だしきに至っては、師父の説法後に表に出てきた学習者は圓満成就できない、ただ功徳だけ積むと邪な悟りをする人もいた。良く修めた学習者の間にも隔たりができて、邪悪が広範囲に学習者を捕え、資料点が迫害される結果を招いた。2000年年末から2001年5月までの間、多くの人が所謂「転向」させられ、損失はきわめて大きかった。数人の資料作成の協調を担当する同修が連行され、非合法に重刑を言い渡されたり、労働教養されたり、所謂「転向」させられたり、甚だきに至っては自ら邪悪を手助けして、他の人を「転向」させる人もいた。

 これらのすべてに直面して、私は驚いた。私は全体に一部の問題が存在しているのが見えて、かつて注意したこともあるが、他の学習者の注意を引き起こせず、私自身も気にしなかった。これほど深刻な迫害を招くとは知らなかった。私は初めて修煉の厳粛さを感じた。学習者の態度から見ると、みな修煉の本質をはっきり知らず、すなわち自分の心に対して、師父が経文『圓満成就に向かって』で既に私達に教えられた、今回の邪悪な迫害は漏れることの無い試練であり、表面上には人心が見えず、ただ表面の行いを重視し、生命の法に対する同化と内心世界の昇華を軽視したため、肝心な時になると乗り越えられなくなり、自分はこの難から免れたが、人の話によると、私は隙間の中をまるで歩いてきたようだといった。実はそうではない。これは人間の方法でどうよけるかの問題ではなく、正反対に心をきちんと整え、直接自分の一つ一つの心に向けて正した結果である。

 それからの5年間、時期も地区も一様でないが、直接或は間接的にこのようなことで、このように広範囲にわたって大規模な迫害に遭ったとか、または聴いたことがあった。特に当地で割によく顔を出しており、有名で比較的よく行なっていると思っていた、主要な協調者がこれほど深刻に迫害されているのをみる度に、私が受けた衝撃はとても大きかった。私もずっと現在までこれらの現象から教訓を得ている。この中には学習者全体の問題もあるが、当地の協調者として、彼らにも一部責任があった。

 この5年間、私もずっと協調の仕事をしてきた。どうしてあれらの有名な、出入りしている資料点の同修や協調者の受けた迫害が比較的深刻なのか? 私はこれは法を実証する中に人心が混じった現われであり、現れ自体は怖くないが、肝心なのは全体が認識しておらず、これらの「有名人」本人も認識しておらず、従って学習者が有名人の群れに対して認識できず、歴史上の常人の中の学者、有名人、英雄、指導者、権威、権利、資本などを正法修煉の中に持ち込んだことがよくなかった。少し混じってもよくない。

 私もこの問題で少なからず失敗した。自らどうして「先に出たがる木がまず腐る」(日本の諺の「出る釘は打たれる」に相当する)かが体験できた。大法弟子はみな同じで、協調者にせよ、一般学習者にせよ、皆同じで、みな互いに同じ高さに立って、真正面を見るべきで、あなたがこの方面で素晴らしい、彼はあの方面で素晴らしい、と表面から学習者を量ってはならない。みな視線を個別の同修、或いは協調者の身に集中し、期待、依存、要求などが、知らず知らずの内にこの同修らの負担を増加させ、超負荷の仕事をさせ、彼らが正常に学法できなくなり、自分を修正できなくなる。甚だしきに至っては、また彼らをほめたり、羨ましがったりして、彼らを瀬戸際に臨ませる。

 協調者として、さらに自分をよく把握すべきで、自分がおかれている環境に警戒心を高め、有名人になるのではなく、自分を学習者の中に置き、自分の手元にある多すぎる仕事を分散し、手放して、他の人に更に多くの機会を提供すべきである。仕事の大小、多少、事の結果や影響を持って、自分或いは他の人の状態と心性の高さを推定する観念を変え、大法は人心を見、法の中に先頭に立つ、有名人などがいない以上、不正な兆候、不正な態度言動が見えたら、直ちに是正すべきで、そうしないと旧勢力も「ピストルは先頭に立つ鳥を打つ」ようになり、口実を探して迫害する。実際あなたがどれくらい大きいこと、どれくらい多くのこと、どれほどすさまじい勢いでするにしても、この過程で、もし私たちが心性の修煉を重んじなければ、あなたの心が動かなくなり、練磨もできず、昇華もされない。

 言うは簡単だが、実際これらの心を取り除くのも相当難しいことである。協調者になるのは初めはやり易く、より苦労し、正念で邪悪の按排を否定し、みなと協力すれば、一つの地域でよくやることはできる。肝心なのは全体的に一部よい局面が現れたとき、効果があり、他の人があなたを信頼し、甚だしきに至ってはあなたを崇拝さえして、当地の有名人になったときである。あなたは学法がよくできて、また内に向けて探せるし、よく発言し、またよく書ける。みなあなたに相談したがる。交流会ではあなたの言うことを聞きたがる。知らない内にあなたを迷いの中に投げる。私もかつて頑迷で悟らなかった。その中で楽しんで、自分が確かに偉いと感じ、自分が正しいと思い、他人を見下ろし始めた。幸いに私は学法を重視し、うちに向けて探したので、自分を法の中で取り戻すことができた。実際あれは危険の始まりで、隠れた危険性の最大要素であった。

 ほかの地区で私は常にこのような環境に置かれた。私はこんな環境の危険性を知っていたので、とても警戒し、自分でも少なからず力を入れ、多くの苦しみを舐めてきた。しかし、この顕示心と自我はまた絶えず表れた。またそれは増えはびこる環境があるので、ある場合、私はうまく把握できず、それらに利用された。その後また後悔し、毎回取り除いた。自分の日記を見ると多くは自我の修正と顕示心である。一回目は警戒し、二回目は注意し、三回目は取り除く。時間が長くなると自分でも気がつかなくなる。すでになれていて、黙認し、認可し、知らないうちに少しずつ下へと落ち、誰かが少し気に入らない話をするとひねくれる。長い時間こんな環境にいると、もし自分に厳しく要求しないならば、あの時こそ危険な中にいたのである。常人社会の理と宇宙の正法理は逆なので、みなあなたがよいと、あなたをほめるとき、それは最も良くないときであり、自分が最も注意すべき時である。どうして私はこんな情況にいるのか、自分にこれらの心が生じたからなのか、即ち大法が自分に賦与してくれた能力を自分の特有のものと勘違いして、仕事が成功するか否かは師父の法身の具体的な按排であり、法が与えてくれた智慧であることを少しずつ忘れたからである。実は協調者としてこれらが認識できれば、自分を修正することにもなる。肝心なのは一層修めると、また一層があることで、絶えず修め、時々刻々冷静な状態を保つことこそ最も難しいことである。

 歴史上異なる時期に形成された執着は本当に山のようで、私もずっとそれを修正する努力をしてきた。私にはそれを取り除く能力がない。「修は己にありて、功は師にあり」なので、私はただ取り除きたい心を抱いて修めるだけで、それはだんだん少なくなる。最初私はただ他の人が私にこう対処してはいけない、崇拝してはいけないと、問題があれば私に指摘してくれるように強調した。後になって、結局自分が求めてきた環境であること、潜在意識ではまた聴きたがり、喜んで受け入れる、などの心を自分と勘違いしたことに気づいた。法に基づいてはっきり認識した時、本当にこれらの環境の現われは自分の心によるもので、あなたが本当に素晴らしくなったのではなく、この環境を利用してあなたの心を修正させるのであると分かってきた。「さらに高い次元の生命体から見れば、人類の社会的な発展は、定められた発展の法則に従って発展しているだけのことですから、人が一生の間に何をするかがその人の能力に応じて按排されているわけではないのです。佛教では因果応報を唱えていますが、彼は業力に応じてあなたに按排されるもので、あなたの力量がいくらあったところで、あなたに徳がなければこの一生で何も得られないかも知れません。見たところ、ある人は何をしても駄目ですが、徳が多いので高官になり、金持ちになります」(『転法輪』)。これは私が数年間協調者として働く中で得た体験と教訓であり、また多くの協調者が乗り越えて来られない一つの原因だと私は思う。もう一点は協調者として更に自分に対して厳しく要求すべきで、トラブルと問題に遭遇したら直ちに内に向かって探し、責任を逃れず、他の学習者を責めず、同修に対して理解し、寛容であり、いつも大法を実証することを第一位にし、自分を実証しなければ、仕事はうまくいく。

 この数年来、私はとても多くの心性の魔難を受けた。全体の協調以外、私は個別の仕事の協調もしていた。この仕事は他の人には知らせる必要がなかったため、常に一部の人に誤解され、仕事の難度は大きくなった。即ち、私がこれらの関係をうまく処理できず、また自分自身に問題があったため、邪悪は3回もこの仕事を破壊し、全体に損失を蒙らせ、3回とも私をスパイだと言う学習者がいた。甚だしきに至っては私が法を破壊しているとも言った。邪悪は他の空間で狂ったかのように迫害しているのに、学習者は私を誤解していたので、私の心性に対する衝撃は極めて大きく、しばらく乗り越えられなかった。自分は法理上でははっきり認識しており、これは修煉者が直面すべきことであり、この苦をなめなければ修煉とはいえず、これは一人の修煉者が昇華できるか否かの致命的な障害であり、修煉とは正に人の心を修めることであり、心を修めることは最も難しいが、この本質的な問題は避けることはできないと悟っていた。

 トラブルがやって来て、衝撃を受け乗り越えられない時、当時私の表れがどうであったとしても、その後はいつも全力を尽くして内に向かって探し、無条件に内に向かって探す。このとき、自分がいくら辛い思いで、いくら苦痛であっても、自分と同じ意見を持つ、或は自分に同情する人、自分と話し合える人を探しだして鬱憤をはらすことはしない。それはその不満やバランスが崩れた心を言い出すと、人間のこの面はとても痛快に感じても、実はそれはよくないものが痛快に思うだけで、あなたは修めておらず、かえってそれを強化したからである。このときあなたは操られる。これらはすべて生命であり、大法弟子は正にこのトラブルの中でこれらの生命を正に帰し、救い済度できる生命を救い済度する。トラブルが現れたとき、根本から自分の心性の問題を探す。表面上は他人のせいに見えて、自分がつらい思いをし、誤解されている。どんな偶然も存在しない。自分を探すことさえできれば、修正すべきものがあり、当然これには邪悪の邪魔もあり、私達はそれを否定し、取り除かなければならない。然し修煉者は必ず内に向けて探すべきで、これは邪悪の迫害に対する根本的な否定である。あらゆる良くない思想観念と執着心、旧勢力のあらゆる要素はすべて私たちが内に向かって探し、探し当て、取り除き、根本的に自分を変え、自分を新宇宙に同化させれば、衆生も助かることができる。

 心性が向上するとすぐ乗り越えられる。こうして私は受動的な立場から主導的な立場へと変わり、内に向かって探すことに対する更に深層の理解から、正法修煉中内に向かって探す真の意義が何か、どうして全体を形成すべきか、他人のことを自分のこととみなす、これは基準であり、大法弟子が背負った使命を完成できる前提条件であることまで理解できた。こう考えるようになり、着実にこうやっていけるならば、心のバランスがとれるだけでなく、他人の角度から問題を考えるようになり、真に他人を理解し、他人に寛容になり、真に他人の身になって他人のために考えることができる。完全に他人のためで自我がなくなるときこそ、真に生命が他人のために存在する意義を感じ取り、自らあの無私無我、何よりも偉大で殊勝なことが体験できる。

 (続く)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/11/114041.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/11/25/67216.html