日本明慧


『ロサンゼルス市での説法』を学んだ体験

【明慧ネット2006年4月1日】私は幸いにも今年のロサンゼルス法会に参加することができたうえに、この耳で直接、師父の説法を聞くことがかないました。しかし、その時はあまりにも感激して、説法内容の一部を覚えられませんでした。その後、新しい説法が明慧ネットに掲載されたら、私は一気に3回も通読しました。心が揺れ動きながら自らの感想を書き出し、学習者同士で交流したいと思います。

一、人に言われたくないという心について

 師父の今回の説法では3回も、今の大法弟子が最も取り除かなければならない心とは、「人に言われたくないという心」だと示唆してくださいました。そして、非常に厳粛に「これは最も根本から、最も本質からこの人が修煉者であるかどうかが証明される問題です」と言われました。今回の話で私は非常にはっきりと目覚めることができました。実は、そういったことは海外弟子の間によくあることで、自分にも察知することができません。自分の欠点やよくない行いなどを聞くと、不満を表に出さなくても本当は放下できず、頭の中で次々とどうやって相手と争うのかを想像して、こうして自分の過ちを覆い隠そうとしました。しかし、よく反省すると、なんと強い名に対する執着だと気づきました! 修煉をしたことによって世俗の名や肩書きなどの常人のものを気にしてはならないと分かり、自分にこのたぐいの執着がすでになくなったかのように感じることができました。とはいえ、ただこれを修煉の世界へという立場的な転換をしただけなのです。例えば、自分の修煉状態にしても法を証明するにしても一旦指摘をされると、つい気が済まなくなり名に対する執着を強めてしまいました。また、修煉者の一人とするならば、受け入れるべきで内に向けて探すのだと分かっていながらも、メンツを重んじるため、とうとう弁解の方向に移っていきました。ときに、「忍」はできたとはいえ、やはり自分は修煉者なのだ、とみせかけだけで、いずれも自分の名に対する執着です。はっきりいうと、名はたくさんの執着をもたらし、顕示心、歓喜心、虚栄心などが次から次へと送り込んできたのです。「名に執着するは、乃ち有為の邪法、世間に名を売るが如きは必ず口善心魔、衆を惑わし法を乱す」『精進要旨・修煉者の忌』。これは取り除かなければならないものであって、師父の今回の説法にもあるように「これは私が普段説法の中で皆さんに少しずつ向上していくことを要求しているような問題ではなく、これはとても肝心な、最後の一つとても大きな問題であり、今すぐ取り除けなければいけないことです」。これで、本当に早くこれを取り除くべきだと慎むものです。

二、法理を利用し「弁解」を求めることに対して戒める

 師父は『ロサンゼルス市での説法』で「弁解」を取り上げられました。本当に恥ずかしく感じたうえに、まるで自分のことを言われているように聞こえました。いつも誰かに指摘されたら、必ず強く反駁しようとするだけでなく、相手が謝るまで迫る一方で、相手のよく筋の通った話に対しても、修煉者である以上これを受け入れるべきだと分かっていながらも、ついに弁解をし始め、さらに師父の説法を用いて自分のことを弁解しました。

 例えば、学習者から子供の世話について常人の心を強めていると指摘されたりすると、「師父が言われたのは、常人のものが少しも残っていなければ、この世にはいられなくなり、修煉もできなくなります」と師父の説法を取り上げて返事をしました。実は自己弁解のため法理から言い訳をしました。その他に、似たようなある学習者のことを聞きました。ある弟子は一人の弟子に怒られました。そして、怒られたほうは「誰が師父の弟子に怒らせたのですか?」と言い、可笑しくて皆で笑ってしまいました。もちろん、腹が立った弟子は違っており、師父の法を利用して対抗した弟子も、人に言われたくないということに対して心が動じるかどうかの試練を避けるためだけのことです。

三、師父の口調は感動的である

 師父の説法『はっきりと覚めよ』に、「わたしがいつも言っているように、他人のためだけを思い、しかも自己の目的と認識を少しも抱かなければ、このような人の言った話は聞く人に涙を流させることだろう。わたしは皆さんに大法を教えただけでなく、わたしのやり方をも皆さんのために残すのであるが、仕事の時の口調、善の心、それに加えて道理は人の心を変えることはできる、しかし、命令では永遠にできないのだ!」『精進要旨』とありました。

 この法理を何回も読みましたが、なかなか実行できませんでした。今回は幸いにも師父とお会いすることができて、その感激、幸せなどは言葉で言い表せず、特に最も感じたのは、師父が弟子のために質問に解答される時の口調で、どの問題に対しても口調は変わらず非常に平穏で、慈悲で説法されており、学習者のよくない行いを言い当てられた場合でも、とても思いやりとユーモアのある話し方で悠然と説かれました。

 私は師父の口調からは無限で広大な慈悲を感じており、仏法の威厳というのは法理から体現できて、厳しい口調からできたのではありません。師父こそは弟子にこのように接することができますが、私たちはというと、自分は学習者同士いかにして接するべきなのですか? いかにして私たちの救い済度を望む衆生に接するべきなのですか?

 法会から何日もたった今、師父の慈悲なる笑顔は私の中に残っており、本当に師父の弟子になれたことが全宇宙で最も幸せであり、最も光栄に思っています。このため、やはり旧勢力が私たち大法弟子のことを嫉妬してしまい、全力を尽くして「試練」を口実に私たちを突き落とそうとしています。そうであればあるほど、私たちはもっとよく行ったうえで、高次元の生命に私たちを敬服させ、さすが師父の弟子だと分からせるように精進しましょう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/4/1/124151.html